こまかいことにこだわってみるのもいいかもね (2003年8月クルーガー国立公園 Photo: E. Bailey)
by HOOP
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HOOPってこんな奴
 かつてスキンの絵柄が女性だったからといって女性が書いてるとは限らないだろ。これが意外どころか、そのものズバリの脂ぎった中年男だったりするのだ。まあ、気持ちだけはいつまでも14歳くらいだったりするんだけんども、そんなこと言われたって気味悪いだけだろうしな。

 あ、そういえば、ブログホイホイに捕獲されちゃいました。アクセスアップだけじゃなくて、けっこう面白いブログに出会えるから意外と使えるかもね。

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日高屋初体験
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何を食べるか迷います。

スタンダードなもの以外は、そんなに安く感じないので(笑)


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黒酢しょうゆ冷し麺(510円)にしました。

サービス券は麺大盛り(70円)券として使用。

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なんだ、次回分を貰っちゃった!


   


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by HOOP | 2015-05-31 17:32 | Drink & Food | Comments(0)
新杉田で途中下車
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日高屋のサービス券が今日までなので、

と思って途中下車したのですが、



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あ、れ〜っ?



   


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by HOOP | 2015-05-31 17:17 | Misc. | Comments(0)
今朝はコレ
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冷し朝そば ネギ多め

ワサビが付いていなかったので、この後、もらいました。


300円@名代 箱根そば 藤沢店


   


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by HOOP | 2015-05-31 07:21 | Drink & Food | Comments(0)
おはようございます
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雨は降らないことになったようですね。


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by HOOP | 2015-05-31 06:35 | Watching | Comments(0)
2号機建屋にキツネ=高線量、行方不明に-福島第1
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東京電力福島第1原発2号機建屋内に入り込んだキツネ=21日(東京電力提供)


2号機建屋にキツネ=高線量、行方不明に-福島第1
 東京電力は28日、福島第1原発2号機原子炉建屋1階にキツネが入り込んだと発表した。建屋内の作業用カメラで21日に姿を確認したが、その後行方が分からない。事故後、原発敷地内で動物が見つかったことはあるが、建屋内は初めてという。
 東電によると、現場は格納容器内につながる配管がある場所で、空間線量は1時間当たり300ミリシーベルト程度、床面は最大同7シーベルトに達する高線量。調査ロボット投入に向けた遠隔操作の除染作業中にカメラが捉えた。
 2号機は津波でシャッターなどが壊れたままになっている箇所があり、侵入経路の可能性がある。
 同原発では2013年、ネズミが原因の停電で、使用済み燃料プールの冷却が一時停止するトラブルがあった。(2015/12/28-20:18 時事通信)


いろんなものが出入りしているんだろうなぁ、、、


  


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by HOOP | 2015-05-30 10:36 | News watch | Comments(0)
おはようございます
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暑くなりそうですね。


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by HOOP | 2015-05-30 06:39 | Watching | Comments(0)
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

「日本一の過疎」に韓国人が殺到!〜「田舎の小さなパン屋」が熱狂的に支持されるワケ
パン屋が書いた異色の「経済書」が韓国で大ウケ

去る9月30日(水)の夜、韓国・ソウル市内のカフェで講演イベントが開かれた。会場に集まった100名ほどの観客の眼差しは、日本からやって来た一組の夫婦に向けられていた。

前のめりになってふたりを見つめ、ふたりの言葉を熱心にメモに残す(もちろん通訳が入っている)。質疑応答の時間には客席で次々と手が挙がり、講演終了後はサインを求めて長い列ができる――。

韓国の人たちの注目を集める一組の夫婦とは、人口7,600人、山間に人々が暮らし、林業が盛んな鳥取県智頭(ちづ)町でパン屋とカフェを営み、ビール事業への挑戦も始めた「タルマーリー」の渡邉格(いたる・44歳)・麻里子(37歳)夫妻だ。

夫の格さんは職人としてパンやビールの製造に取り組み、妻の麻里子さんは女将として売り場の一切を取り仕切る。ふたりのもとでは、5人の従業員と3人のアルバイトスタッフが働く。

「タルマーリー」は日本でもその名が広く知られている。休日ともなると、鳥取県内のみならず、広く中国・関西地方から、ときには九州や関東からも、大勢の人が「タルマーリー」目掛けてやってくる。先のシルバーウィークには一日400人もが訪れたという。

続きを読む
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田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」
渡邉 格
講談社
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by HOOP | 2015-05-29 21:47 | Reading | Comments(0)
朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (5)
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「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影-」

元防衛研究所戦史部主任研究官 鈴木 英隆


おわりに

 日本特別掃海隊の朝鮮海域への派遣は、当時の国連軍側の極東における掃海兵力の状況及び占領下で講和条約締結前という日本の置かれた立場から、我が国にとって極めて避けがたいものであった。吉田首相はこれを国際貢献の好機と捉え、我が国の独立のため、そして国際的地位獲得のために巧みに活用したものと言えよう。また、日本特別掃海隊の活動は、元山で掃海艇の触雷・沈没により死傷者を出し、能勢隊 3 隻が日本に帰投したものの、全体として国連軍の作戦に大きく寄与するとともに、旧海軍時代から培った掃海に関する術力を誇示し、我が国及び国連軍、特に米海軍の期待に十分に応える成果をあげたものと言えよう。

 一方、派遣隊員の心情は、プロフェッショナルとして「掃海をするために」あるいは「我が国の独立のために、そして国際社会の一員として」等々さまざまであったが、その根底には、帝国海軍軍人の繋がりもしくは同じ掃海仲間という強い結びつきがあったものと思われる。さらに、派遣の事実が秘匿されたことにより、マスコミ及び国会等で大して取り上げられることなく、日本特別掃海隊の朝鮮海域派遣を成功させることが出来たものの、彼らの活躍が約 30 年にもわたりほとんど世に知られることなく、また、彼等自らもその事実を口外できなかったことは、日本特別掃海隊の残した負の遺産とも言えるのではないだろうか。

 50 年 12 月 15 日、大久保長官が米極東海軍司令部にバーク少将を訪れた際、バーク少将は大久保長官にワシントン行きを勧めるとともに、「日本の海上保安庁掃海隊が朝鮮海域で国連軍を援けたことは、国際的にきわめて有意義であった。今回の海上保安庁の業績は高く評価されており、私個人の考えでは、日本の平和条約締結の機運を、ぐっと早める効果をもたらしたと思う」と述べた。一方、51 年 1 月、大久保長官がバーク少将の勧めでワシントンを訪れた際、国連アメリカ代表部の海軍武官は「朝鮮戦争における日本特別掃海隊の業績を、国連では高く評価している」と述べたとされ、日本特別掃海隊の活躍が国連内でも認められたことを示している。このことは、日本特別掃海隊の活躍が吉田首相の「朝鮮掃海に協力して講和条約を有利に運びたい」という目論見どおりの成果につながったのではないかと考えられるが、本研究においては、バーク少将が言うような「日本特別掃海隊の活躍が平和条約締結の機運を早める効果をもたらした」のかについては、残念ながら究明するに至っていない。

 なお、朝鮮戦争において、海上保安庁の掃海部隊は、日本特別掃海隊の派遣の他に以下の二つの活躍をしている。その第一は、東京湾口及び佐世保港外の日施掃海であり、共産側の潜水艦及びゲリラによる機雷敷設に対する警戒措置として、米極東海軍から指令されたものであり、50 年の 7 月から開始し、我が国独立後の 53 年 9 月まで実施したものである。その第二は、試航船「桑栄丸」の朝鮮海域への派遣であり、米極東海軍の要請により、51 年 4 月から 52 年 7 月まで 3 次にわたり、釜山、鎮海、馬山、木浦、麗水、仁川の海域を試航したものである。これらの事実は、日本特別掃海隊の派遣同様秘密裡に処理され、未だにその詳細は明らかにされておらず、新たな研究成果に期待するものである。


  


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by HOOP | 2015-05-29 21:44 | Reading | Comments(0)
朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (4)
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「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影-」

元防衛研究所戦史部主任研究官 鈴木 英隆


3 日本特別掃海隊の残したもの
 12 月 5 日、大久保長官は吉田首相を訪ね、日本特別掃海隊の任務がおおむね終了、各隊が下関に帰投したので、隊員を集めて慰労の式を挙げることを報告した。吉田首相は、「諸君の行動は国際社会に参加せんとする日本の行く手に、光を与えるものであった」との直筆によるねぎらいの辞を大久保長官に託した。また 7 日には、米極東海軍司令官ジョイ中将が日本特別掃海隊の功績をたたえて、大久保長官に対し「ウェル・ダン」という最高の賞詞を贈っている。9 日、海州部隊(大賀隊)はいまだ帰国の途上にあったが、大久保長官は下関唐戸桟橋で日本特別掃海隊員を前に、吉田首相からのねぎらいの辞及び米極東海軍司令官からの賞詞を伝えるとともに、慰労の辞を述べ、隊員の苦労をねぎらった。15 日、米極東海軍参謀長モアハウス(Albert K. Morehouse)少将は、米極東海軍司令官名の文書をもって、海上保安庁に対し、日本特別掃海隊の朝鮮水域からの解放について指示するとともに、米極東海軍司令官からの感謝の意を伝えた。これにより日本特別掃海隊の編成は、正式に解かれ、各艇は、それぞれの母港へと帰投した。

 本章では、日本特別掃海隊の輝かしい活躍の陰で、派遣隊員の心情はどのようなものであったのか、また、派遣の事実が約 30 年にもわたり公にされず、このことがどのような影響を及ぼしたのかについて明らかにするとともに、日本特別掃海隊の果たした意義について考察する。

(1)派遣隊員の心情
 日本は再び戦争は繰り返さない、戦争はもう懲り懲りだ、戦争のない平和な国を創らなければという戦後間もない当時の一般的風潮の中、実際に派遣された隊員の心情は、どのようなものであったのだろうか。

 能勢氏の手記では、「『日本は新しく成立した憲法によって戦争を放棄したのであるから、今更他国の戦争の為に危険な処に生命をさらしに行く理由は無い。(略)日本再建という使命だけを荷なって国民の掃海作業に献身的努力をしているのである。外国の掃海をする為に戦場に行くというのは納得しかねる。然し占領軍の命令とあれば、日本政府としては之に従わざるを得ないのではないか』というのが全隊員の感情であったようである」と記されている。また、 MS06 号艇長有山幹夫氏は、「『戦争に巻き込まれる恐れが多分にある。危険性も高い。このような状況で、部下を連れて行くことはとても出来ない』と申し出ると、六管区航路啓開部長池端鉄郎氏から『理屈を抜きにして全体のために自説を曲げてくれ』と口説かれ『先輩にこうまで言われると、いやとは言えない海軍の連帯感が心の中にあった』として、しぶしぶ従った」と証言している。

 一方、鎮南浦掃海に従事した石野自彊指揮官は、「当時の隊員の考え、心情は、MS14号艇の触雷沈没事故により、『今更なんで朝鮮まで出掛けて、死の危険を冒してまで掃海せねばならないのか』という疑問によって動揺した時機もあったが、ただちにとられた諸措置と、占領下の日本のおかれた立場を納得し、朝鮮水域に出動したのであるが、大部の乗員の考えの根底には、特別掃海隊解散にあたり、時の海上保安庁長官大久保武雄氏が訓示の中でいみじくもいわれた、『国際社会において、名誉ある一員たるためには、手をこまねいていてはその地位を獲得できない。私達自らの努力と汗で獲得しなければならない』との願望をもって、占領からの脱却、独立国日本の実現になんらかの寄与ができるのではないかという期待があったものと思う」と述べている。

 また、MS14 号機関長井田本吉氏は、「われわれは朝鮮動乱に参加したとは思っていない。掃海任務に徹していたからだ。いやだといって退職した者もいない。元気なものは、再度朝鮮行きを希望している事実は、やはり掃海に徹していたからだと思う」と述べた上で、MS14 号で重症を負った測角員の伊藤博氏の言として「当時のことについて、世上では、強権による出兵とかいろいろいわれているが、自分たちの朝鮮での掃海は、朝鮮の平和、日本の平和を今日維持している要因であったことを確信している」と紹介している。

 2003 年 11 月、広島県呉市において、筆者は MS14 号の乗組員で当時甲板次長の白井一夫氏と、甲板員の高木(旧姓石岡)義人氏にお会いすることができた。両名とも「我々の任務は、掃海をすることであった。日本で掃海をするも、朝鮮で掃海をするも、掃海をすることに代わりは無い。ただ掃海をするために出かけていっただけだ」と語った。なお、白井氏は、MS14 号の触雷・沈没で全身打撲の負傷を負い、帰国治療後の 50 年 11月「ゆうちどり」の乗組となり、一方、高木氏は、帰国後同じく 11 月に MS06 号乗組として再び朝鮮海域に赴き、鎮南浦の掃海に参加している。

 これらを見るに、出撃にあたり釈然としない面は多々あったものの、プロフェッショナルとして「掃海をするために」あるいは、「我が国の独立のために、そして国際社会の一員として」という大義名分の下、旧帝国海軍軍人の繋がりまたは同じ掃海仲間という強い結びつきで、やむなく出撃していったのではないだろうか。MS14 号の触雷・沈没で、中谷坂太郎氏が戦死し、能勢隊が帰投したにもかかわらず、朝鮮海域の各地で整斉と掃海作業が続けられたことがそのことを物語っているように思われる。

(2)日本特別掃海隊派遣が秘匿された影響
 日本掃海艇の朝鮮海域派遣の要請について、大久保長官から報告を受けた吉田首相は、「わかった。出しましょう。国連軍に協力するのは日本政府の方針である。ただし、掃海隊の派遣とその行動については、いっさい秘密にするように」と述べた。当時、新憲法が制定されて 3 年、戦時下の朝鮮水域への掃海艇派遣は憲法第 9 条に抵触する恐れがあり、表ざたになれば政治問題化することは十分に予想され、具体化しはじめていた講和条約締結問題に悪影響を及ぼす可能性があった。

 山上隊が下関を出撃した 2 日後の 50 年 10 月 9 日、東京新聞夕刊によって日本特別掃海隊が朝鮮海域へ出動したことが報じられた。続いて 22 日には、朝日新聞は朝鮮海域での掃海艇の沈没事故を伝え、数については不正確であるが、この事故で死傷者が出たことを報じている 。しかし、当時は占領軍の威光がきいていたのか、野党からの反応はなかったという。

 54 年 1 月 18 日、大阪新聞及び産業経済新聞は、元山上陸作戦において掃海中の海上保安庁掃海艇 1 隻が触雷・沈没し、戦死者 1 名を出したことを報じた。これを機に、野党の国会追及が始まる。1 月 30 日の衆議院本会議各党代表質問で、共産党の川上貫市議員が、元山上陸作戦に日本の掃海艇が参加した事実を糾すと、吉田首相は、「元山沖の掃海艇云々はマッカーサー元帥が日本にいた時のことで、何も記憶はない」と答弁している。3 月 24 日の衆議院外務委員会では社会党下川儀太郎議員が、また、29 日には穂積七郎議員が、元山上陸作戦での掃海作業は憲法違反ではないかと質問したのに対し、外務省条約局長の下田武三氏は、「占領中でなかったら問題となり得るかと思うが、GHQ の命令により行われたことは、平和条約で、日本はこのことを追求しないこととなっている」と答弁しており、以後国会における事実関係の追求はなされなかったようである。

 吉田首相の指示により、日本特別掃海隊の派遣とその行動が一切秘密とされた。このことにより、アーレイ・バーク少将からの派遣要請があったその日のうちに派遣を決定し、しかもその 5 日後には日本から第一陣が出撃、途中、掃海艇の触雷・沈没事故により死傷者を出したにもかかわらず、マスコミおよび国会等で大して取り上げられることもなく、約 2 ヵ月間の日本特別掃海隊の朝鮮海域派遣を成功させることができたのである。

 一方、秘密とされたことにより失われたものも決して小さいものではなかった。 50年 12 月 9 日、大久保長官が下関唐戸桟橋で、特別掃海隊員を前に「日本が将来国際社会において、名誉ある一員たるべきためには、私たち自らが、自らの努力により、その汗によって、名誉ある地位を獲得しなければなりません」と述べた慰労の辞は、日本特別掃海隊の事実を約 30 年にわたり知らされなかった国民には伝わるはずもなかった。

 言うまでもなく、日本特別掃海隊の隊員及びその関係者には、特別掃海隊の件に関し厳格な緘口令が敷かれており、彼等にとって、事実を世に認めてもらえない無念さは、いかばかりであったかは想像に難くない。大久保武雄の『海鳴りの日々』に、元山で触雷・沈没した MS14 号の甲板次長白井一夫氏の談話として、「当時のことについては、今迄に「週刊文春」等に朝鮮掃海の記事があったが、真実でなく、小説的に書かれている。早く真実を公表してほしい」と口惜しい気持ちが述べられている。

 MS14 号とともに戦死した故中谷坂太郎氏の場合は、さらに悲惨である。MS14 号が触雷・沈没した時、政府は戦死者や戦傷者に対する補償の処置をとっておらず、バーク少将と相談し、殉職者には取りあえず GHQ から弔問し、補償金を出してもらったという。50 年 10 月 25 日、海上保安庁葬として行われた葬儀に出席できなかった兄の中谷藤市氏によれば、「父から『米軍の命令による掃海だったことと死んだ場所は、絶対口外しないように』と言われ、瀬戸内海の掃海中に死んだことにしようと、みなで申し合わせた」という。

 52 年、終戦時からの掃海殉職者の偉業を永く後世に伝え、その御霊を祀るため、全国32 の市港長が発起人となり、香川県琴平の金刀比羅宮に、吉田首相の揮毫による掃海殉職者顕彰碑が建立された。この碑に、中谷坂太郎氏の名が終戦後からの掃海殉職者 76名とともに刻まれているが、殉職場所、時期等日本特別掃海隊派遣中の殉職であることを示すものは見当たらない。坂太郎氏の殉職後 29 年を経た 79 年秋、戦没者叙勲で勲八等白色桐葉章が贈られた。ただし、勲章の伝達は内輪にして欲しいとの内閣の意向で、新聞発表は取りやめ、大久保武雄氏及び所管の海上保安部長が遺族の家を訪れて伝達したという。

 兄の藤市さんは、「叙勲によって、やっと坂太郎の殉職が公認された。これで晴れて弟の死を語ることが出来る」と話したとされる。

(3)日本特別掃海隊の意義
 日本特別掃海隊の果たした意義として、次の 3 点が挙げられるのではないだろうか。

 第一に、朝鮮戦争における国連軍の上陸作戦、撤退作戦及び後方支援作戦等に大きく寄与したということである。日本特別掃海隊の元山、鎮南浦、海州、仁川、群山における掃海活動が、国連軍の元山上陸作戦、鎮南浦からの撤退作戦及び上記港湾を使用しての後方支援作戦等に必要不可欠であったことは、前述のとおりである。 50 年 12 月 7日の米極東海軍司令官ジョイ中将から大久保長官に対する日本特別掃海隊の功績をたたえた「ウェル・ダン」の賞詞に示されるように、日本特別掃海隊が朝鮮戦争において、国連軍の上陸作戦、撤退作戦及び後方支援作戦等に大きく寄与したことは言うまでもない。米太平洋艦隊中間報告では、「50 年 9 月以降の掃海艇の再就役と、日本掃海艇の利用とが相まって、北朝鮮の機雷原と戦うことを許容し、11 月には機雷戦能力は、受容できる程度まで改善された」、「連合国最高司令官(SCAP)の承認を得て参加した日本の掃海艇は、作戦の成功に大きく貢献した」と評価している。

 第二に、日本の掃海に関する術力及び技術力を国連軍に誇示したことである。日本特別掃海隊の朝鮮水域での活躍は、第 2 次世界大戦の後半から戦後 5 年間にわたり、日本沿岸海域での掃海作業で培ってきた掃海に関する術力並びに帝国海軍からの掃海に関する技術力を国連軍に誇示したものといえよう。ジェームズ・アワー(James E. Auer)は、「日本掃海艇によって一度掃海された区域で、他の掃海艇によって掃海のやり直しをしなければならないようなところは、一箇所もなかった。だが、日本の掃海艇にくらべてはるかに経験の浅かった国連軍の掃海艇が掃海した区域では、こんなことは言えなかった」と述べている。また、米太平洋艦隊中間報告では、「日本の掃海艇は、元山、鎮南浦、海州、群山で 係維及び磁気機雷の掃海に従事した。隊員の技量は良好(good)であり、掃海艇の馬力が小さいことを考慮すれば、掃海作業は満足(satisfactory)すべきものであった」と評価している。

 一方、海上保安庁の特別掃海隊の経過概要並びに所見には、「幸いに器材、舟艇の不備に拘わらず我が術力は大いに認められ我方の意見具申は高く評価されたが掃海作業の生命とする精度確保の点よりして舟艇、器材の不備を痛感した。国連軍の舟艇、器材に配するに我術力を以ってせば最高度の能率発揮は極めて容易なるを確信した。(以下略)」と記されている。また、能勢指揮官の元山で提案した LCVP による小掃海が鎮南浦で採用され、多大な成果を上げたこと及び群山での萩原隊が英国フリゲート艦艦長から「給料を 3 倍出すから鎮南浦の掃海をやってくれ」と再三にわたり口説かれたこと等も、日本特別掃海隊の術力を評価したものと言えよう。

 さらに、技術力の面では、米太平洋艦隊中間報告によると、小舟艇による磁気掃海では、日本製の 3式(磁.棒)掃海具を使用した対艦式磁銲棒掃海が使用され、「よく訓練された人員の場合、見事な成果を収めた」、「(3 式)掃海具はよく操作され、よく機能した。日本式磁銲棒掃海は有効幅が小さく、舟艇は適切な航法を必要としたがその単純性と有用性は、米国の B8 磁気ワイヤー掃海具に匹敵する」と述べられている。

 第三には、海上保安庁の装備等の強化をもたらしたとともに、海上戦力再建への布石となったことである。朝鮮戦争の勃発により、50 年 7 月 8 日マッカーサー連合国最高司令官は吉田首相宛の書簡によって 7 万 5 千名からなる警察予備隊の創設と海上保安庁の 8 千名の増員を求めた。同年秋、米極東海軍司令官ジョイ中将は、野村吉三郎元海軍大将に、ソ連から返還されたフリゲート艦 18 隻を日本に貸与してもよいと述べている。日本特別掃海隊の朝鮮における活躍により、バーク少将はこれらのフリゲート艦を日本の新しい海軍で使用するのが適当であると考えるようになり、米国政府の了解を取り付けるのには日本側から要求させるのが良いとして、閣僚レベルの地位にあり、吉田首相の信頼の厚い大久保長官をワシントンに送り交渉させることとした。同年 12 月 15日、バーク少将を訪れた大久保長官に対し「マッカーサー書簡に答えるためには、海上保安庁の勢力を強化し、従来の不合理な制限をとり除かねばならない。大久保長官はワシントンにおもむき、アメリカ政府やペンタゴンと打ち合わせてくるのが良策だ」と示唆している。51 年 1 月、バーク少将の勧めで、渡米した大久保長官は、巡視船の速力、トン数制限の撤廃、大砲の搭載、米フリゲート艦の提供、浮遊機雷監視用航空機の保持等装備の強化について、国防省の了解を取り付けた。このようにして海上保安庁の装備等の強化が承認されるとともに、後に貸与されるフリゲート艦は、同じく貸与される大型上陸支援艇( LSSL)及び保安庁警備隊の掃海部隊とともに我が国海上兵力再建の基礎となるのである。


朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (5)に続く


日本の掃海―航路啓開五十年の歩み

 


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by HOOP | 2015-05-29 21:43 | Reading | Comments(0)
朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (3)
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「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影-」

元防衛研究所戦史部主任研究官 鈴木 英隆


2 日本特別掃海隊の活動

(1)朝鮮半島東岸(元山)での掃海活動
元山での掃海兵力 TG95.6 掃海任務群は、指揮官スポフォード(Richard T. Spofford)大佐、旗艦兼掃海母艦米高速輸送艦「ダイアチェンコ」、米掃海艦艇 12 隻(DMS2 隻、AM3 隻、AMS7 隻)、米駆逐艦 1 隻、米工作艦 1 隻、米サルベージ艦 1 隻及び日本掃海艇8 隻でもって編成された。このうち米掃海艇 6 隻は、10 月 6 日佐世保発、10 日元山着で掃海を開始している。

 一方、日本側は田村総指揮官直卒の下、旗艦「ゆうちどり」及び第 2 掃海隊(指揮官能勢事務官 MS344 隻、PS353 隻)が 10 月 8 日未明下関発、対馬海峡北方海面で米サルベージ艦と会合し、目的地が元山であることを伝えられた。 9 日には、吉田総理から特別掃海隊全般宛、「我が国の平和と独立のため、日本政府として国連軍の朝鮮水域に於ける掃海作業に協力する」旨の電報が届けられ、10 日元山着、翌日から掃海作業に着手している。

 元山上陸作戦の上陸決行日(D日)は、 10 月 20 日であった。 10 日に至り、韓国第1 軍団が元山を占領したことにより米第 10 軍団の強襲上陸作戦の必要性は無くなった
が、北鮮軍の撃退のためには、速やかに第 10 軍団を上陸させることが必要であった。12 日、米側は触雷により掃海艇 2 隻が沈没し、13 人が戦死又は行方不明となり 79 名が負傷した。掃海作業は、航空機による機雷捜索を除き一時中断されたが、 14 日に再開された。17 日 1430、米軍から永興湾内の泊地と水路の掃海が下令され、日本側には触雷の危険性が少なく、航空機による機雷捜索の結果、敷設線がないであろうと考えられる海域が割り当てられた。ところが、最悪の事態が生起する。 1521、永興湾麗島灯台の 244 度 4,500m の地点で日本掃海艇 MS14 号が触雷により瞬時にして沈没したのである。米軍の交通艇、内火艇及び日本側 MS06 号の通船により 22 名を救出したが、行方不明者 1 名(中谷坂太郎氏)及び重軽傷者 18 名を出す事態となった。救出者 22 名は、いったん米サルベージ艦に収容、翌 18 日、米駆逐艦にて佐世保に移送された。

 17 日夕刻、旗艦「ゆうちどり」で緊急対策会議が開かれ、各艇長からは、「米軍の戦争にこれ以上巻き込まれたくない。掃海を止めて日本に帰るべきだ」、「出港前の下関における総指揮官の説明とは話が違う」と喧喧囂囂たる雰囲気であったが、「米軍の上陸用舟艇(LCVP)で浅深度の小掃海を実施した後、我々の掃海艇による掃海を再開する」との能勢指揮官の提案を米軍に申し入れることとなった。会議終了後、石飛事務官を指揮官とする第 3 掃海隊 MS5 隻は、元山に向け同日朝下関を出港、米駆逐艦とともに元山に向かったとの情報がもたらされた。 18 日朝、田村総指揮官は、CTG95.6 掃海任務群指揮官スポフォード大佐に米 LCVP による小掃海を申し入れたが、 CTF95 前進任務部隊指揮官スミス(Allan E. Smith)少将から、「今から小掃海をやる時間的余裕はない。予定のとおり速やかに掃海を実施せよ」との命令が出された。このまま掃海を継続すれば、触雷は必至と思われ、同日午後、田村総指揮官が「小掃海を先行させつつ係維掃海するか、米掃海艇による係維掃海後に磁気掃海する」という譲歩案の具申にスミス少将を訪れると、「日本掃海艇 3 隻は 15 分以内に内地に帰れ。しからざれば 15 分以内に出港して掃海にかかれ。出港しなければ撃つ」と厳命された。これを伝えられた能勢指揮官及び各艇長は日本帰投を決心し、能勢隊(第 2 掃海隊)MS3 隻は、田村総指揮官の慰留を振り切って、修理中の MS17 号を横抱きにしながら永興湾を離れた。

 10 月 18 日、元山の北鮮軍の機雷貯蔵所跡において、磁気機雷用のコイルが発見され、さらに同日夕刻、韓国掃海艇 YMS516 号が触雷・沈没した。CJTF7 第 7 統合任務部隊指揮官ストラブル(Arthur D. Struble)中将は、機雷の危険性に鑑み、また、10 月 10 日韓国軍が既に元山を占領していたこともあり、D日の延期を上申し、これに対しマッカーサー元帥は上陸の無期限延期を許可した。

 20 日朝、第 3 掃海隊 MS5 隻は永興湾に到着、残存していた PS3 隻を同隊に編入、翌 21 日から米軍の命令どおり湾内水路と泊地の掃海を開始した。結局、元山港が啓開されたのは 25 日であり、米軍の元山上陸が行われたのは計画より 6 日後の 26 日であった。

 能勢隊(第 2 掃海隊)は 10 月 20 日下関に到着し、その後能勢指揮官は海上保安庁に出頭した。一方、田村総指揮官も 22 日米軍の水上飛行艇で東京に帰投し、事の顛末を海上保安庁長官に報告している。米極東海軍司令部からは、「能勢指揮官と 3 名の艇長は航路啓開隊から排除せよ」という指令が発せられるとともに、GHQ からは、公職追放猶予中の旧海軍将校全員に対して猶予を取り消すという通達が出された。

 能勢隊の帰投については、従来、これ以上犠牲者を出さないためにはやむを得なかったという肯定的な見方と、作戦遂行上犠牲者が出ても任務遂行を優先すべきであったという否定的な見方があるが、今回、米側の資料から次のことが明らかになった。即ち、22 日、能勢隊が何故帰投したかについて GHQ 公安局(Public Safety Division)と海上保安庁との会議がもたれ、日本特別掃海隊は、戦闘掃海ではなく確認掃海のみに従事するということで出撃していたこと、田村航路啓開部長と各船艇長とのやりとりで、北緯38 度以南の掃海に従事することとされたこと、そして、米現地指揮官は能勢隊の LCVPによる掃海の提案に何も対策を採らなかった事等が明らかにされた。この会議の結論として、能勢隊帰投の原因は、「米現地指揮官が日本特別掃海隊隊員の置かれた立場をよく認識せず、日本側の LCVP による掃海の申し出に対して何ら処置をしなかったことである」とされた。

 24 日、大久保長官は、田村総指揮官宛の海上保安庁長官命令を打電し、前線部隊に対し日本政府の意向と掃海継続の方針を漏れなく伝達するよう命令した。31 日、大久保長官は田村総指揮官とともに米極東海軍司令部にジョイ司令官を訪れ、掃海艇 3 隻が日本に引き返したことを詫び、責任者の処分を約束した。ジョイ中将は、「日本の掃海隊が非常によく働いてくれている。今度の事故は残念だが、今後かかることのないよう協力を願う」と述べた。大久保長官はさらに、 10 月 31 日で切れる旧軍人掃海関係者の公職追放猶予の延期をジョイ中将に頼み、これを受けた GHQ は猶予の継続を認めた。責任者の処分については、当初米海軍は強硬であったが、日本側の掃海継続の誠意を認め、最終的には能勢指揮官一人が責任を負うことで解決した。

 以後、第 3 掃海隊は、11 月 26 日まで同海域で掃海を実施し、同月 22 日到着した第1 掃海隊(第 2 次)(指揮官花田賢司事務官、PS1 隻、MS6 隻)と交代、下関に帰投した。第 1 掃海隊の作業は、既掃海面の日施掃海あるいは試航等安全海面の掃海であり、かつ自主性を付与されていたため、現地米軍との折衝は、極めて順調に経過したという。第1 掃海隊はその後 12 月 4 日まで掃海作業に従事し、12 月 6 日下関に帰投している。

 元山における日本特別掃海隊は、 10 月 10 日から 12 月 4 日までの掃海作業において、能勢隊(第 2 掃海隊)が処分した 3 個を含め計 8 個の機雷を処分し、MS1 隻を失い、死者 1 名重軽傷者 18 名を出した。

(2)朝鮮半島西岸での掃海活動
 朝鮮西海岸においては、 50 年 10 月、米第 8 軍の前進に伴い 1 日の補給所要量は1,500 トンに達し、京城以北の鉄道、トラック輸送では、その半分を輸送出来るにすぎず、航空輸送で補っても不足分を埋め合わせることは出来なかった。このため、海上輸送による物資補給が緊急に求められ、西海岸の諸港を啓開する努力が続けられた。

a 仁川・海州
 山上隊(第 1 掃海隊(第 1 次)MS4 隻、PS1 隻)は、同月 7 日、日本特別掃海隊の先陣を切って下関を出撃 52、10 日仁川港外にて英、米、仏等の艦艇と会合している。その後、11 日から 31 日までの間、英国フリゲート艦「ホワイトサンドベー」とともに、CTE95.10 西海岸哨戒任務隊指揮官(英国)の下で、海州航路の掃海作業に従事し、計 15個の機雷を処分した。山上指揮官の所感として「英駆逐艦、韓国海軍艦艇との連係行動において国際場面に直面し、日本人たるの意識(たとえ日の丸を掲げざるも)と日本政府の代表たるの自覚に発奮と相互の美徳を遺憾なく発揮し、ピッタリとした気持ちの合致によって人の和は完全に達成し得たるは、本任務完遂に対し最大要因であった」、「韓国民は当隊の掃海作業に心から感謝していた」と述べている。なお、山上隊は、 11 月 1日海州発、3 日下関に帰投した。

 その後、鎮南浦の掃海に従事していた大賀(良平)隊(第 4 掃海隊(第 2 次)MS4 隻、PS1 隻)は 11 月 30 日鎮南浦発、12 月 1 日から 6 日までの間、英駆逐艦「モーコンベイ」艦長の指揮を受け海州掃海水道の確認掃海を実施し、12 月 11 日下関に到着している。

b 鎮南浦
 10 月 21 日、米第 8 軍は平壌の占領を宣言した。さらに西部海岸方面における作戦の進展に伴い、元山同様濃密な機雷が敷設されている鎮南浦を使用可能にすることが喫緊の課題となった。このため、アーチャー(Stephen M. Archer)米海軍中佐を指揮官とし、駆逐艦 1 隻、掃海艦艇 9 隻(DMS2 隻、AMS3 隻、韓国 YMS4 隻)、ヘリコプター1 機その他揚陸艦の搭載艇 LCVP 等からなる TE95.69 鎮南浦掃海任務隊が編成された。これに 11 月 7 日以後、日本の第 2 掃海隊が加わることとなる。

 11 月 2 日、米掃海艇 AMS3 隻、韓国掃海艇 YMS2 隻による掃海作業が開始された。4日にはドック揚陸艦「カタマウント」が 12 隻の LCVP を搭載して到着し、元山で能勢隊が提案した LCVP による事前掃海が成果を上げることとなる。

 日本特別掃海隊は石野(自彊)隊(第 2 掃海隊(第 2 次)MS9 隻)が 11 月 3 日下関発、7 日鎮南浦に到着し、翌 8 日から掃海作業に従事している。 9 日に下関を発った大賀隊(第 5 掃海隊 MS4 隻 59、PS1 隻)は 15 日鎮南浦着、30 日まで作業に従事する。さらに17 日には、我が国が傭船契約した試航船「泰昭丸」(6,000 トン)が加わり、同じく 30 日まで活動した。

 第 2 掃海隊指揮官石野自彊氏によれば、掃海の方法は、まず米海軍水中処分隊が機雷を捜索拘束し、次いで浅喫水の上陸用舟艇 LCVP による略掃を行い、その後日本の掃海艇により精密掃海を実施するというものであった。韓国掃海艇に補給のため横付けした際、韓国軍の兵士から「自分の国の危機に(日本特別掃海隊が)手助けにきてくれているということを皆大変感謝している。中には日本を憎んでいる者もいるが、こんな皆さんの仕事を知らない人が多い」と話し掛けられたという。11 月 20 日鎮南浦の掃海完了が発表され、掃海作業も既掃海水道内を日施掃海するだけになった。第 2 掃海隊はアーチャー大佐(昇任)の命令により内地に帰投することとなり、 12 月 3 日鎮南浦発、7日下関に帰投した。鎮南浦における第 2 掃海隊の処分機雷は、2 個であった。

 なお、中共軍の介入に伴い、米第 8 軍は 11 月 28 日前線から後退し、12 月 4 日から5 日にかけて鎮南浦からの撤退と数万に及ぶ亡命者の南への移送を余儀なくされ、さらに 5 日には中共軍が平壌を占領するという情勢の中、石野隊(第 2 掃海隊)の鎮南浦からの帰投は、まさに中共軍との戦闘に巻き込まれる寸前の脱出であったと言えよう。

c 群 山
 萩原隊(第 4 掃海隊 MS7 隻)は、10 月 17 日下関出港、19 日群山に到着、翌日から掃海業務を開始した。同隊は、TE95.7 韓国海軍任務隊(米指揮官)に編入され、韓国 YMS艇長の指揮を受けながら 64、11 月 4 日までの 16 日間掃海業務に従事し、計 3 個の機雷を処分して、同月 9 日下関に帰投している。この間、10 月 27 日には、日本掃海艇 MS30号が座礁沈没したものの幸いにして死傷者はなかった。

 また、英国フリゲート艦艦長から「給料を 3 倍出すから鎮南浦の掃海をやってくれ」と再三にわたり口説かれたというエピソードは、当時、鎮南浦掃海の緊急の必要性を物語るものと言えよう。事実、第 4 掃海隊の MS4 隻は、11 月 2 日第 2 掃海隊に編入され、4 日群山発、途中下関から出撃した石野隊と合同し、7 日から鎮南浦の掃海に従事している。

 群山における日本の掃海作業報告には「同じ海域に対し、違った作戦命令が佐世保の第 3 掃海隊群司令部、韓国船 YMS-513、英国駆逐艦「モーコンベイ」及び日本の総指揮官から出され、我々はどの命令をとるべきか判断に迷わされた」「全作業を我々に任されたら、我々自身のペースでもっと容易に掃海作業を実施できたと思われる」とあり、群山においては指揮系統が混乱しており、また、日本側に必ずしも自主性が付与されていなかったことが伺える。


朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (4)に続く

  


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by HOOP | 2015-05-29 21:42 | Reading | Comments(0)