こまかいことにこだわってみるのもいいかもね (2003年8月クルーガー国立公園 Photo: E. Bailey)
by HOOP
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 かつてスキンの絵柄が女性だったからといって女性が書いてるとは限らないだろ。これが意外どころか、そのものズバリの脂ぎった中年男だったりするのだ。まあ、気持ちだけはいつまでも14歳くらいだったりするんだけんども、そんなこと言われたって気味悪いだけだろうしな。

 あ、そういえば、ブログホイホイに捕獲されちゃいました。アクセスアップだけじゃなくて、けっこう面白いブログに出会えるから意外と使えるかもね。

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反東京オリンピック宣言 ―神戸大学の広報より―
反東京オリンピック宣言


反東京オリンピック宣言


「アンダーコントロール」などという安倍首相による世界に向けた破廉恥なまでの虚偽発言、裏金不正疑惑、抵抗するアスリートの排除、 野宿者排除・人権蹂躙、だるま式に膨れ上がる開催費用/まやかしの経済効果、環境汚染、置き去りにされる福島復興・原発対策……様々な問題が山積・噴出しているにもかかわらず、なぜ東京でオリンピックを開かねばならないのか?政府・東京都・広告業界、それらと一体と化したマスメディアが、これらの問題に目を耳を口を閉ざして歓迎ムードを醸成、反対の声を抑圧するなか、2020東京オリンピック開催に対して、スポーツ、科学、思想、哲学、社会学などの研究者・活動家ら16人による根源的な異議申し立て。

http://www.kobe-u.ac.jp/…/public-r…/book/2016/1608_17_1.html


目次


巻頭言
 イメージとフレーム――五輪ファシズムを迎え撃つために (鵜飼 哲)


第I部 科学者/科学論
 私のオリンピック反対論――スポーツはもはやオリンピックを必要としない (池内 了)
 災害資本主義の只中での忘却への圧力――非常事態政治と平常性バイアス (塚原 東吾)


第II部 レガシー
 先取りされた未来の憂鬱――東京2020年オリンピックとレガシープラン (阿部 潔)
 「リップサービス」としてのナショナリズム (石川 義正)


第III部 運動の継承
 メガ・イヴェントはメディアの祝福をうけながら空転する (酒井 隆史)
 貧富の戦争がはじまる――オリンピックとジェントリフィケーションをめぐって (原口 剛)
 オリンピックと生活の闘い (小川てつオ)
 反オリンピック (ジュールズ・ボイコフ (鈴木直文 訳))
 祝賀資本主義に対抗する市民の力 (鈴木 直文)
 ありがとう、でももう結構――オリンピック協約の贈与と負債 (フィル・コーエン(小美濃 彰・友常 勉 訳))
 トラックの裏側――オリンピックの生政治とレガシー・ビジネス、そして効果研究 (友常 勉)
 競技場に闘技が入場するとき (小泉 義之)
 アスリートたちの反オリンピック (山本 敦久)
 なぜ僕がいまだにオリンピックを憎んでいるのか (テリエ・ハーコンセン(山本敦久 訳))
 反東京オリンピック宣言――あとがきにかえて (小笠原 博毅)


(大学院国際文化学研究科・教授 小笠原博毅)


以上、神戸大学広報・神大人の本より



オリンピック経済幻想論 ~2020年東京五輪で日本が失うもの~





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by HOOP | 2017-10-12 23:35 | Reading | Comments(0)
放射線が身体に当たると?
放射線が身体に当たると?

お騒がせ致します。私の電子書籍Kindle版の第2弾を出しました。
タイトル「放射線が身体に当たると」(アマゾン、200円)でございます。

 先だって仙台に行くため茨城から高速道路をドライブしました。
すると高速道路脇に、ず〜っと只今の放射線量と言う電光掲示板が立ててあるんですな。
只今、何シーベルトなんてのが出てました。

どういう意味があるのか、お分かりになります?

私、放射線生物学の専門家でもあるんですが、呆れました。
掲示は只今0.047μシーベルト、
何のことか全く分かりませんよね(安全基準量0.11μシーベルト)。

野菜が120ベクレル、ヤバい????
側溝の泥が2万ベクレル????

この、20000と120と0.000000047の違いって、
何かお分かりになりますかね?安全基準量って?。とにかく呆れます。
そこで誰にでも分かり易く説明するための解説書を書いてみました
(放射線系って物理学者が多いので難解な本が多いです)。

ご参照いただければ有り難いです。シェアいただければ更に感謝です。

坂口謙吾 7月23日


放射線が身体に当たると?
Sakaguchi Publisher (2015-07-21)
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by HOOP | 2015-06-05 09:27 | Reading | Comments(0)
今、そこで起こること
亡国記

8月3日、現代学館から上梓された新刊小説です。

東京新聞のコラムで斎藤美奈子さんが絶賛しています。

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私は早速、今から図書館に行き、
購入希望を出しておきます。



出版社サイトから
■斎藤美奈子さん推薦!
「最悪のシナリオ」が進行する中、日本を脱出した父と娘は生きのびることができるのか。ロードノベルの傑作です。

■小出裕章さん推薦!
原子力を選択することのツケ、本書に描かれている近未来を避けるためには、私たち一人ひとりが賢くなる必要がある。

■2017年、原発事故に巻き込まれた親子が難民化してゆく過程を描写!
2017年春、なし崩し的に原発再稼働が進む日本列島を東海大地震が襲う。原発の破損、放射能漏れにより、日本は壊滅状態となる。京都で暮らしていた父娘は日本を脱出し、韓国から中国、欧米諸国へ…。普通の人々が国を失う姿をリアルに描写。

■原発に賛成でも反対でもない中間層に幅広く届けたい1冊!
賛成論・反対論に二分されてしまう「原発もの」とは一線を画し、「原発もの」である前に「読み物」として面白くあることを最優先。従来のノンフィクションでは届かなかった読者層にもアプローチします。

■火山噴火と地震が相次ぐ日本の未来を明示! 日本人の真価が問われるドラマ。
原発と日本の地理的リスクについて見て見ぬふりをする日本には、どんな未来が待ち受けているのか? 苦難の中でも誠実に生きる親子の感動のラスト!

亡国記
亡国記
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北野慶
現代書館
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by HOOP | 2015-06-05 03:45 | Reading | Comments(0)
検察の特捜部というのは
2020年 東京五輪の黒いカネ

2020年 東京五輪の黒いカネ

検察の特捜部、たとえば東京地検特捜部なんてところでは、
こういう本を読んでいたりするんでしょうか?

今国会会期中とは申しませんが、
2020年のオリンピック開催前、
いや、2019年のラグビーW杯開催前までに、
なんらかのアクションを起こしてもらいたいものです。


  


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by HOOP | 2015-06-02 21:13 | Reading | Comments(0)
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

「日本一の過疎」に韓国人が殺到!〜「田舎の小さなパン屋」が熱狂的に支持されるワケ
パン屋が書いた異色の「経済書」が韓国で大ウケ

去る9月30日(水)の夜、韓国・ソウル市内のカフェで講演イベントが開かれた。会場に集まった100名ほどの観客の眼差しは、日本からやって来た一組の夫婦に向けられていた。

前のめりになってふたりを見つめ、ふたりの言葉を熱心にメモに残す(もちろん通訳が入っている)。質疑応答の時間には客席で次々と手が挙がり、講演終了後はサインを求めて長い列ができる――。

韓国の人たちの注目を集める一組の夫婦とは、人口7,600人、山間に人々が暮らし、林業が盛んな鳥取県智頭(ちづ)町でパン屋とカフェを営み、ビール事業への挑戦も始めた「タルマーリー」の渡邉格(いたる・44歳)・麻里子(37歳)夫妻だ。

夫の格さんは職人としてパンやビールの製造に取り組み、妻の麻里子さんは女将として売り場の一切を取り仕切る。ふたりのもとでは、5人の従業員と3人のアルバイトスタッフが働く。

「タルマーリー」は日本でもその名が広く知られている。休日ともなると、鳥取県内のみならず、広く中国・関西地方から、ときには九州や関東からも、大勢の人が「タルマーリー」目掛けてやってくる。先のシルバーウィークには一日400人もが訪れたという。

続きを読む
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田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」
渡邉 格
講談社
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by HOOP | 2015-05-29 21:47 | Reading | Comments(0)
朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (5)
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「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影-」

元防衛研究所戦史部主任研究官 鈴木 英隆


おわりに

 日本特別掃海隊の朝鮮海域への派遣は、当時の国連軍側の極東における掃海兵力の状況及び占領下で講和条約締結前という日本の置かれた立場から、我が国にとって極めて避けがたいものであった。吉田首相はこれを国際貢献の好機と捉え、我が国の独立のため、そして国際的地位獲得のために巧みに活用したものと言えよう。また、日本特別掃海隊の活動は、元山で掃海艇の触雷・沈没により死傷者を出し、能勢隊 3 隻が日本に帰投したものの、全体として国連軍の作戦に大きく寄与するとともに、旧海軍時代から培った掃海に関する術力を誇示し、我が国及び国連軍、特に米海軍の期待に十分に応える成果をあげたものと言えよう。

 一方、派遣隊員の心情は、プロフェッショナルとして「掃海をするために」あるいは「我が国の独立のために、そして国際社会の一員として」等々さまざまであったが、その根底には、帝国海軍軍人の繋がりもしくは同じ掃海仲間という強い結びつきがあったものと思われる。さらに、派遣の事実が秘匿されたことにより、マスコミ及び国会等で大して取り上げられることなく、日本特別掃海隊の朝鮮海域派遣を成功させることが出来たものの、彼らの活躍が約 30 年にもわたりほとんど世に知られることなく、また、彼等自らもその事実を口外できなかったことは、日本特別掃海隊の残した負の遺産とも言えるのではないだろうか。

 50 年 12 月 15 日、大久保長官が米極東海軍司令部にバーク少将を訪れた際、バーク少将は大久保長官にワシントン行きを勧めるとともに、「日本の海上保安庁掃海隊が朝鮮海域で国連軍を援けたことは、国際的にきわめて有意義であった。今回の海上保安庁の業績は高く評価されており、私個人の考えでは、日本の平和条約締結の機運を、ぐっと早める効果をもたらしたと思う」と述べた。一方、51 年 1 月、大久保長官がバーク少将の勧めでワシントンを訪れた際、国連アメリカ代表部の海軍武官は「朝鮮戦争における日本特別掃海隊の業績を、国連では高く評価している」と述べたとされ、日本特別掃海隊の活躍が国連内でも認められたことを示している。このことは、日本特別掃海隊の活躍が吉田首相の「朝鮮掃海に協力して講和条約を有利に運びたい」という目論見どおりの成果につながったのではないかと考えられるが、本研究においては、バーク少将が言うような「日本特別掃海隊の活躍が平和条約締結の機運を早める効果をもたらした」のかについては、残念ながら究明するに至っていない。

 なお、朝鮮戦争において、海上保安庁の掃海部隊は、日本特別掃海隊の派遣の他に以下の二つの活躍をしている。その第一は、東京湾口及び佐世保港外の日施掃海であり、共産側の潜水艦及びゲリラによる機雷敷設に対する警戒措置として、米極東海軍から指令されたものであり、50 年の 7 月から開始し、我が国独立後の 53 年 9 月まで実施したものである。その第二は、試航船「桑栄丸」の朝鮮海域への派遣であり、米極東海軍の要請により、51 年 4 月から 52 年 7 月まで 3 次にわたり、釜山、鎮海、馬山、木浦、麗水、仁川の海域を試航したものである。これらの事実は、日本特別掃海隊の派遣同様秘密裡に処理され、未だにその詳細は明らかにされておらず、新たな研究成果に期待するものである。


  


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by HOOP | 2015-05-29 21:44 | Reading | Comments(0)
朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (4)
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「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影-」

元防衛研究所戦史部主任研究官 鈴木 英隆


3 日本特別掃海隊の残したもの
 12 月 5 日、大久保長官は吉田首相を訪ね、日本特別掃海隊の任務がおおむね終了、各隊が下関に帰投したので、隊員を集めて慰労の式を挙げることを報告した。吉田首相は、「諸君の行動は国際社会に参加せんとする日本の行く手に、光を与えるものであった」との直筆によるねぎらいの辞を大久保長官に託した。また 7 日には、米極東海軍司令官ジョイ中将が日本特別掃海隊の功績をたたえて、大久保長官に対し「ウェル・ダン」という最高の賞詞を贈っている。9 日、海州部隊(大賀隊)はいまだ帰国の途上にあったが、大久保長官は下関唐戸桟橋で日本特別掃海隊員を前に、吉田首相からのねぎらいの辞及び米極東海軍司令官からの賞詞を伝えるとともに、慰労の辞を述べ、隊員の苦労をねぎらった。15 日、米極東海軍参謀長モアハウス(Albert K. Morehouse)少将は、米極東海軍司令官名の文書をもって、海上保安庁に対し、日本特別掃海隊の朝鮮水域からの解放について指示するとともに、米極東海軍司令官からの感謝の意を伝えた。これにより日本特別掃海隊の編成は、正式に解かれ、各艇は、それぞれの母港へと帰投した。

 本章では、日本特別掃海隊の輝かしい活躍の陰で、派遣隊員の心情はどのようなものであったのか、また、派遣の事実が約 30 年にもわたり公にされず、このことがどのような影響を及ぼしたのかについて明らかにするとともに、日本特別掃海隊の果たした意義について考察する。

(1)派遣隊員の心情
 日本は再び戦争は繰り返さない、戦争はもう懲り懲りだ、戦争のない平和な国を創らなければという戦後間もない当時の一般的風潮の中、実際に派遣された隊員の心情は、どのようなものであったのだろうか。

 能勢氏の手記では、「『日本は新しく成立した憲法によって戦争を放棄したのであるから、今更他国の戦争の為に危険な処に生命をさらしに行く理由は無い。(略)日本再建という使命だけを荷なって国民の掃海作業に献身的努力をしているのである。外国の掃海をする為に戦場に行くというのは納得しかねる。然し占領軍の命令とあれば、日本政府としては之に従わざるを得ないのではないか』というのが全隊員の感情であったようである」と記されている。また、 MS06 号艇長有山幹夫氏は、「『戦争に巻き込まれる恐れが多分にある。危険性も高い。このような状況で、部下を連れて行くことはとても出来ない』と申し出ると、六管区航路啓開部長池端鉄郎氏から『理屈を抜きにして全体のために自説を曲げてくれ』と口説かれ『先輩にこうまで言われると、いやとは言えない海軍の連帯感が心の中にあった』として、しぶしぶ従った」と証言している。

 一方、鎮南浦掃海に従事した石野自彊指揮官は、「当時の隊員の考え、心情は、MS14号艇の触雷沈没事故により、『今更なんで朝鮮まで出掛けて、死の危険を冒してまで掃海せねばならないのか』という疑問によって動揺した時機もあったが、ただちにとられた諸措置と、占領下の日本のおかれた立場を納得し、朝鮮水域に出動したのであるが、大部の乗員の考えの根底には、特別掃海隊解散にあたり、時の海上保安庁長官大久保武雄氏が訓示の中でいみじくもいわれた、『国際社会において、名誉ある一員たるためには、手をこまねいていてはその地位を獲得できない。私達自らの努力と汗で獲得しなければならない』との願望をもって、占領からの脱却、独立国日本の実現になんらかの寄与ができるのではないかという期待があったものと思う」と述べている。

 また、MS14 号機関長井田本吉氏は、「われわれは朝鮮動乱に参加したとは思っていない。掃海任務に徹していたからだ。いやだといって退職した者もいない。元気なものは、再度朝鮮行きを希望している事実は、やはり掃海に徹していたからだと思う」と述べた上で、MS14 号で重症を負った測角員の伊藤博氏の言として「当時のことについて、世上では、強権による出兵とかいろいろいわれているが、自分たちの朝鮮での掃海は、朝鮮の平和、日本の平和を今日維持している要因であったことを確信している」と紹介している。

 2003 年 11 月、広島県呉市において、筆者は MS14 号の乗組員で当時甲板次長の白井一夫氏と、甲板員の高木(旧姓石岡)義人氏にお会いすることができた。両名とも「我々の任務は、掃海をすることであった。日本で掃海をするも、朝鮮で掃海をするも、掃海をすることに代わりは無い。ただ掃海をするために出かけていっただけだ」と語った。なお、白井氏は、MS14 号の触雷・沈没で全身打撲の負傷を負い、帰国治療後の 50 年 11月「ゆうちどり」の乗組となり、一方、高木氏は、帰国後同じく 11 月に MS06 号乗組として再び朝鮮海域に赴き、鎮南浦の掃海に参加している。

 これらを見るに、出撃にあたり釈然としない面は多々あったものの、プロフェッショナルとして「掃海をするために」あるいは、「我が国の独立のために、そして国際社会の一員として」という大義名分の下、旧帝国海軍軍人の繋がりまたは同じ掃海仲間という強い結びつきで、やむなく出撃していったのではないだろうか。MS14 号の触雷・沈没で、中谷坂太郎氏が戦死し、能勢隊が帰投したにもかかわらず、朝鮮海域の各地で整斉と掃海作業が続けられたことがそのことを物語っているように思われる。

(2)日本特別掃海隊派遣が秘匿された影響
 日本掃海艇の朝鮮海域派遣の要請について、大久保長官から報告を受けた吉田首相は、「わかった。出しましょう。国連軍に協力するのは日本政府の方針である。ただし、掃海隊の派遣とその行動については、いっさい秘密にするように」と述べた。当時、新憲法が制定されて 3 年、戦時下の朝鮮水域への掃海艇派遣は憲法第 9 条に抵触する恐れがあり、表ざたになれば政治問題化することは十分に予想され、具体化しはじめていた講和条約締結問題に悪影響を及ぼす可能性があった。

 山上隊が下関を出撃した 2 日後の 50 年 10 月 9 日、東京新聞夕刊によって日本特別掃海隊が朝鮮海域へ出動したことが報じられた。続いて 22 日には、朝日新聞は朝鮮海域での掃海艇の沈没事故を伝え、数については不正確であるが、この事故で死傷者が出たことを報じている 。しかし、当時は占領軍の威光がきいていたのか、野党からの反応はなかったという。

 54 年 1 月 18 日、大阪新聞及び産業経済新聞は、元山上陸作戦において掃海中の海上保安庁掃海艇 1 隻が触雷・沈没し、戦死者 1 名を出したことを報じた。これを機に、野党の国会追及が始まる。1 月 30 日の衆議院本会議各党代表質問で、共産党の川上貫市議員が、元山上陸作戦に日本の掃海艇が参加した事実を糾すと、吉田首相は、「元山沖の掃海艇云々はマッカーサー元帥が日本にいた時のことで、何も記憶はない」と答弁している。3 月 24 日の衆議院外務委員会では社会党下川儀太郎議員が、また、29 日には穂積七郎議員が、元山上陸作戦での掃海作業は憲法違反ではないかと質問したのに対し、外務省条約局長の下田武三氏は、「占領中でなかったら問題となり得るかと思うが、GHQ の命令により行われたことは、平和条約で、日本はこのことを追求しないこととなっている」と答弁しており、以後国会における事実関係の追求はなされなかったようである。

 吉田首相の指示により、日本特別掃海隊の派遣とその行動が一切秘密とされた。このことにより、アーレイ・バーク少将からの派遣要請があったその日のうちに派遣を決定し、しかもその 5 日後には日本から第一陣が出撃、途中、掃海艇の触雷・沈没事故により死傷者を出したにもかかわらず、マスコミおよび国会等で大して取り上げられることもなく、約 2 ヵ月間の日本特別掃海隊の朝鮮海域派遣を成功させることができたのである。

 一方、秘密とされたことにより失われたものも決して小さいものではなかった。 50年 12 月 9 日、大久保長官が下関唐戸桟橋で、特別掃海隊員を前に「日本が将来国際社会において、名誉ある一員たるべきためには、私たち自らが、自らの努力により、その汗によって、名誉ある地位を獲得しなければなりません」と述べた慰労の辞は、日本特別掃海隊の事実を約 30 年にわたり知らされなかった国民には伝わるはずもなかった。

 言うまでもなく、日本特別掃海隊の隊員及びその関係者には、特別掃海隊の件に関し厳格な緘口令が敷かれており、彼等にとって、事実を世に認めてもらえない無念さは、いかばかりであったかは想像に難くない。大久保武雄の『海鳴りの日々』に、元山で触雷・沈没した MS14 号の甲板次長白井一夫氏の談話として、「当時のことについては、今迄に「週刊文春」等に朝鮮掃海の記事があったが、真実でなく、小説的に書かれている。早く真実を公表してほしい」と口惜しい気持ちが述べられている。

 MS14 号とともに戦死した故中谷坂太郎氏の場合は、さらに悲惨である。MS14 号が触雷・沈没した時、政府は戦死者や戦傷者に対する補償の処置をとっておらず、バーク少将と相談し、殉職者には取りあえず GHQ から弔問し、補償金を出してもらったという。50 年 10 月 25 日、海上保安庁葬として行われた葬儀に出席できなかった兄の中谷藤市氏によれば、「父から『米軍の命令による掃海だったことと死んだ場所は、絶対口外しないように』と言われ、瀬戸内海の掃海中に死んだことにしようと、みなで申し合わせた」という。

 52 年、終戦時からの掃海殉職者の偉業を永く後世に伝え、その御霊を祀るため、全国32 の市港長が発起人となり、香川県琴平の金刀比羅宮に、吉田首相の揮毫による掃海殉職者顕彰碑が建立された。この碑に、中谷坂太郎氏の名が終戦後からの掃海殉職者 76名とともに刻まれているが、殉職場所、時期等日本特別掃海隊派遣中の殉職であることを示すものは見当たらない。坂太郎氏の殉職後 29 年を経た 79 年秋、戦没者叙勲で勲八等白色桐葉章が贈られた。ただし、勲章の伝達は内輪にして欲しいとの内閣の意向で、新聞発表は取りやめ、大久保武雄氏及び所管の海上保安部長が遺族の家を訪れて伝達したという。

 兄の藤市さんは、「叙勲によって、やっと坂太郎の殉職が公認された。これで晴れて弟の死を語ることが出来る」と話したとされる。

(3)日本特別掃海隊の意義
 日本特別掃海隊の果たした意義として、次の 3 点が挙げられるのではないだろうか。

 第一に、朝鮮戦争における国連軍の上陸作戦、撤退作戦及び後方支援作戦等に大きく寄与したということである。日本特別掃海隊の元山、鎮南浦、海州、仁川、群山における掃海活動が、国連軍の元山上陸作戦、鎮南浦からの撤退作戦及び上記港湾を使用しての後方支援作戦等に必要不可欠であったことは、前述のとおりである。 50 年 12 月 7日の米極東海軍司令官ジョイ中将から大久保長官に対する日本特別掃海隊の功績をたたえた「ウェル・ダン」の賞詞に示されるように、日本特別掃海隊が朝鮮戦争において、国連軍の上陸作戦、撤退作戦及び後方支援作戦等に大きく寄与したことは言うまでもない。米太平洋艦隊中間報告では、「50 年 9 月以降の掃海艇の再就役と、日本掃海艇の利用とが相まって、北朝鮮の機雷原と戦うことを許容し、11 月には機雷戦能力は、受容できる程度まで改善された」、「連合国最高司令官(SCAP)の承認を得て参加した日本の掃海艇は、作戦の成功に大きく貢献した」と評価している。

 第二に、日本の掃海に関する術力及び技術力を国連軍に誇示したことである。日本特別掃海隊の朝鮮水域での活躍は、第 2 次世界大戦の後半から戦後 5 年間にわたり、日本沿岸海域での掃海作業で培ってきた掃海に関する術力並びに帝国海軍からの掃海に関する技術力を国連軍に誇示したものといえよう。ジェームズ・アワー(James E. Auer)は、「日本掃海艇によって一度掃海された区域で、他の掃海艇によって掃海のやり直しをしなければならないようなところは、一箇所もなかった。だが、日本の掃海艇にくらべてはるかに経験の浅かった国連軍の掃海艇が掃海した区域では、こんなことは言えなかった」と述べている。また、米太平洋艦隊中間報告では、「日本の掃海艇は、元山、鎮南浦、海州、群山で 係維及び磁気機雷の掃海に従事した。隊員の技量は良好(good)であり、掃海艇の馬力が小さいことを考慮すれば、掃海作業は満足(satisfactory)すべきものであった」と評価している。

 一方、海上保安庁の特別掃海隊の経過概要並びに所見には、「幸いに器材、舟艇の不備に拘わらず我が術力は大いに認められ我方の意見具申は高く評価されたが掃海作業の生命とする精度確保の点よりして舟艇、器材の不備を痛感した。国連軍の舟艇、器材に配するに我術力を以ってせば最高度の能率発揮は極めて容易なるを確信した。(以下略)」と記されている。また、能勢指揮官の元山で提案した LCVP による小掃海が鎮南浦で採用され、多大な成果を上げたこと及び群山での萩原隊が英国フリゲート艦艦長から「給料を 3 倍出すから鎮南浦の掃海をやってくれ」と再三にわたり口説かれたこと等も、日本特別掃海隊の術力を評価したものと言えよう。

 さらに、技術力の面では、米太平洋艦隊中間報告によると、小舟艇による磁気掃海では、日本製の 3式(磁.棒)掃海具を使用した対艦式磁銲棒掃海が使用され、「よく訓練された人員の場合、見事な成果を収めた」、「(3 式)掃海具はよく操作され、よく機能した。日本式磁銲棒掃海は有効幅が小さく、舟艇は適切な航法を必要としたがその単純性と有用性は、米国の B8 磁気ワイヤー掃海具に匹敵する」と述べられている。

 第三には、海上保安庁の装備等の強化をもたらしたとともに、海上戦力再建への布石となったことである。朝鮮戦争の勃発により、50 年 7 月 8 日マッカーサー連合国最高司令官は吉田首相宛の書簡によって 7 万 5 千名からなる警察予備隊の創設と海上保安庁の 8 千名の増員を求めた。同年秋、米極東海軍司令官ジョイ中将は、野村吉三郎元海軍大将に、ソ連から返還されたフリゲート艦 18 隻を日本に貸与してもよいと述べている。日本特別掃海隊の朝鮮における活躍により、バーク少将はこれらのフリゲート艦を日本の新しい海軍で使用するのが適当であると考えるようになり、米国政府の了解を取り付けるのには日本側から要求させるのが良いとして、閣僚レベルの地位にあり、吉田首相の信頼の厚い大久保長官をワシントンに送り交渉させることとした。同年 12 月 15日、バーク少将を訪れた大久保長官に対し「マッカーサー書簡に答えるためには、海上保安庁の勢力を強化し、従来の不合理な制限をとり除かねばならない。大久保長官はワシントンにおもむき、アメリカ政府やペンタゴンと打ち合わせてくるのが良策だ」と示唆している。51 年 1 月、バーク少将の勧めで、渡米した大久保長官は、巡視船の速力、トン数制限の撤廃、大砲の搭載、米フリゲート艦の提供、浮遊機雷監視用航空機の保持等装備の強化について、国防省の了解を取り付けた。このようにして海上保安庁の装備等の強化が承認されるとともに、後に貸与されるフリゲート艦は、同じく貸与される大型上陸支援艇( LSSL)及び保安庁警備隊の掃海部隊とともに我が国海上兵力再建の基礎となるのである。


朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (5)に続く


日本の掃海―航路啓開五十年の歩み

 


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by HOOP | 2015-05-29 21:43 | Reading | Comments(0)
朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (3)
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「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影-」

元防衛研究所戦史部主任研究官 鈴木 英隆


2 日本特別掃海隊の活動

(1)朝鮮半島東岸(元山)での掃海活動
元山での掃海兵力 TG95.6 掃海任務群は、指揮官スポフォード(Richard T. Spofford)大佐、旗艦兼掃海母艦米高速輸送艦「ダイアチェンコ」、米掃海艦艇 12 隻(DMS2 隻、AM3 隻、AMS7 隻)、米駆逐艦 1 隻、米工作艦 1 隻、米サルベージ艦 1 隻及び日本掃海艇8 隻でもって編成された。このうち米掃海艇 6 隻は、10 月 6 日佐世保発、10 日元山着で掃海を開始している。

 一方、日本側は田村総指揮官直卒の下、旗艦「ゆうちどり」及び第 2 掃海隊(指揮官能勢事務官 MS344 隻、PS353 隻)が 10 月 8 日未明下関発、対馬海峡北方海面で米サルベージ艦と会合し、目的地が元山であることを伝えられた。 9 日には、吉田総理から特別掃海隊全般宛、「我が国の平和と独立のため、日本政府として国連軍の朝鮮水域に於ける掃海作業に協力する」旨の電報が届けられ、10 日元山着、翌日から掃海作業に着手している。

 元山上陸作戦の上陸決行日(D日)は、 10 月 20 日であった。 10 日に至り、韓国第1 軍団が元山を占領したことにより米第 10 軍団の強襲上陸作戦の必要性は無くなった
が、北鮮軍の撃退のためには、速やかに第 10 軍団を上陸させることが必要であった。12 日、米側は触雷により掃海艇 2 隻が沈没し、13 人が戦死又は行方不明となり 79 名が負傷した。掃海作業は、航空機による機雷捜索を除き一時中断されたが、 14 日に再開された。17 日 1430、米軍から永興湾内の泊地と水路の掃海が下令され、日本側には触雷の危険性が少なく、航空機による機雷捜索の結果、敷設線がないであろうと考えられる海域が割り当てられた。ところが、最悪の事態が生起する。 1521、永興湾麗島灯台の 244 度 4,500m の地点で日本掃海艇 MS14 号が触雷により瞬時にして沈没したのである。米軍の交通艇、内火艇及び日本側 MS06 号の通船により 22 名を救出したが、行方不明者 1 名(中谷坂太郎氏)及び重軽傷者 18 名を出す事態となった。救出者 22 名は、いったん米サルベージ艦に収容、翌 18 日、米駆逐艦にて佐世保に移送された。

 17 日夕刻、旗艦「ゆうちどり」で緊急対策会議が開かれ、各艇長からは、「米軍の戦争にこれ以上巻き込まれたくない。掃海を止めて日本に帰るべきだ」、「出港前の下関における総指揮官の説明とは話が違う」と喧喧囂囂たる雰囲気であったが、「米軍の上陸用舟艇(LCVP)で浅深度の小掃海を実施した後、我々の掃海艇による掃海を再開する」との能勢指揮官の提案を米軍に申し入れることとなった。会議終了後、石飛事務官を指揮官とする第 3 掃海隊 MS5 隻は、元山に向け同日朝下関を出港、米駆逐艦とともに元山に向かったとの情報がもたらされた。 18 日朝、田村総指揮官は、CTG95.6 掃海任務群指揮官スポフォード大佐に米 LCVP による小掃海を申し入れたが、 CTF95 前進任務部隊指揮官スミス(Allan E. Smith)少将から、「今から小掃海をやる時間的余裕はない。予定のとおり速やかに掃海を実施せよ」との命令が出された。このまま掃海を継続すれば、触雷は必至と思われ、同日午後、田村総指揮官が「小掃海を先行させつつ係維掃海するか、米掃海艇による係維掃海後に磁気掃海する」という譲歩案の具申にスミス少将を訪れると、「日本掃海艇 3 隻は 15 分以内に内地に帰れ。しからざれば 15 分以内に出港して掃海にかかれ。出港しなければ撃つ」と厳命された。これを伝えられた能勢指揮官及び各艇長は日本帰投を決心し、能勢隊(第 2 掃海隊)MS3 隻は、田村総指揮官の慰留を振り切って、修理中の MS17 号を横抱きにしながら永興湾を離れた。

 10 月 18 日、元山の北鮮軍の機雷貯蔵所跡において、磁気機雷用のコイルが発見され、さらに同日夕刻、韓国掃海艇 YMS516 号が触雷・沈没した。CJTF7 第 7 統合任務部隊指揮官ストラブル(Arthur D. Struble)中将は、機雷の危険性に鑑み、また、10 月 10 日韓国軍が既に元山を占領していたこともあり、D日の延期を上申し、これに対しマッカーサー元帥は上陸の無期限延期を許可した。

 20 日朝、第 3 掃海隊 MS5 隻は永興湾に到着、残存していた PS3 隻を同隊に編入、翌 21 日から米軍の命令どおり湾内水路と泊地の掃海を開始した。結局、元山港が啓開されたのは 25 日であり、米軍の元山上陸が行われたのは計画より 6 日後の 26 日であった。

 能勢隊(第 2 掃海隊)は 10 月 20 日下関に到着し、その後能勢指揮官は海上保安庁に出頭した。一方、田村総指揮官も 22 日米軍の水上飛行艇で東京に帰投し、事の顛末を海上保安庁長官に報告している。米極東海軍司令部からは、「能勢指揮官と 3 名の艇長は航路啓開隊から排除せよ」という指令が発せられるとともに、GHQ からは、公職追放猶予中の旧海軍将校全員に対して猶予を取り消すという通達が出された。

 能勢隊の帰投については、従来、これ以上犠牲者を出さないためにはやむを得なかったという肯定的な見方と、作戦遂行上犠牲者が出ても任務遂行を優先すべきであったという否定的な見方があるが、今回、米側の資料から次のことが明らかになった。即ち、22 日、能勢隊が何故帰投したかについて GHQ 公安局(Public Safety Division)と海上保安庁との会議がもたれ、日本特別掃海隊は、戦闘掃海ではなく確認掃海のみに従事するということで出撃していたこと、田村航路啓開部長と各船艇長とのやりとりで、北緯38 度以南の掃海に従事することとされたこと、そして、米現地指揮官は能勢隊の LCVPによる掃海の提案に何も対策を採らなかった事等が明らかにされた。この会議の結論として、能勢隊帰投の原因は、「米現地指揮官が日本特別掃海隊隊員の置かれた立場をよく認識せず、日本側の LCVP による掃海の申し出に対して何ら処置をしなかったことである」とされた。

 24 日、大久保長官は、田村総指揮官宛の海上保安庁長官命令を打電し、前線部隊に対し日本政府の意向と掃海継続の方針を漏れなく伝達するよう命令した。31 日、大久保長官は田村総指揮官とともに米極東海軍司令部にジョイ司令官を訪れ、掃海艇 3 隻が日本に引き返したことを詫び、責任者の処分を約束した。ジョイ中将は、「日本の掃海隊が非常によく働いてくれている。今度の事故は残念だが、今後かかることのないよう協力を願う」と述べた。大久保長官はさらに、 10 月 31 日で切れる旧軍人掃海関係者の公職追放猶予の延期をジョイ中将に頼み、これを受けた GHQ は猶予の継続を認めた。責任者の処分については、当初米海軍は強硬であったが、日本側の掃海継続の誠意を認め、最終的には能勢指揮官一人が責任を負うことで解決した。

 以後、第 3 掃海隊は、11 月 26 日まで同海域で掃海を実施し、同月 22 日到着した第1 掃海隊(第 2 次)(指揮官花田賢司事務官、PS1 隻、MS6 隻)と交代、下関に帰投した。第 1 掃海隊の作業は、既掃海面の日施掃海あるいは試航等安全海面の掃海であり、かつ自主性を付与されていたため、現地米軍との折衝は、極めて順調に経過したという。第1 掃海隊はその後 12 月 4 日まで掃海作業に従事し、12 月 6 日下関に帰投している。

 元山における日本特別掃海隊は、 10 月 10 日から 12 月 4 日までの掃海作業において、能勢隊(第 2 掃海隊)が処分した 3 個を含め計 8 個の機雷を処分し、MS1 隻を失い、死者 1 名重軽傷者 18 名を出した。

(2)朝鮮半島西岸での掃海活動
 朝鮮西海岸においては、 50 年 10 月、米第 8 軍の前進に伴い 1 日の補給所要量は1,500 トンに達し、京城以北の鉄道、トラック輸送では、その半分を輸送出来るにすぎず、航空輸送で補っても不足分を埋め合わせることは出来なかった。このため、海上輸送による物資補給が緊急に求められ、西海岸の諸港を啓開する努力が続けられた。

a 仁川・海州
 山上隊(第 1 掃海隊(第 1 次)MS4 隻、PS1 隻)は、同月 7 日、日本特別掃海隊の先陣を切って下関を出撃 52、10 日仁川港外にて英、米、仏等の艦艇と会合している。その後、11 日から 31 日までの間、英国フリゲート艦「ホワイトサンドベー」とともに、CTE95.10 西海岸哨戒任務隊指揮官(英国)の下で、海州航路の掃海作業に従事し、計 15個の機雷を処分した。山上指揮官の所感として「英駆逐艦、韓国海軍艦艇との連係行動において国際場面に直面し、日本人たるの意識(たとえ日の丸を掲げざるも)と日本政府の代表たるの自覚に発奮と相互の美徳を遺憾なく発揮し、ピッタリとした気持ちの合致によって人の和は完全に達成し得たるは、本任務完遂に対し最大要因であった」、「韓国民は当隊の掃海作業に心から感謝していた」と述べている。なお、山上隊は、 11 月 1日海州発、3 日下関に帰投した。

 その後、鎮南浦の掃海に従事していた大賀(良平)隊(第 4 掃海隊(第 2 次)MS4 隻、PS1 隻)は 11 月 30 日鎮南浦発、12 月 1 日から 6 日までの間、英駆逐艦「モーコンベイ」艦長の指揮を受け海州掃海水道の確認掃海を実施し、12 月 11 日下関に到着している。

b 鎮南浦
 10 月 21 日、米第 8 軍は平壌の占領を宣言した。さらに西部海岸方面における作戦の進展に伴い、元山同様濃密な機雷が敷設されている鎮南浦を使用可能にすることが喫緊の課題となった。このため、アーチャー(Stephen M. Archer)米海軍中佐を指揮官とし、駆逐艦 1 隻、掃海艦艇 9 隻(DMS2 隻、AMS3 隻、韓国 YMS4 隻)、ヘリコプター1 機その他揚陸艦の搭載艇 LCVP 等からなる TE95.69 鎮南浦掃海任務隊が編成された。これに 11 月 7 日以後、日本の第 2 掃海隊が加わることとなる。

 11 月 2 日、米掃海艇 AMS3 隻、韓国掃海艇 YMS2 隻による掃海作業が開始された。4日にはドック揚陸艦「カタマウント」が 12 隻の LCVP を搭載して到着し、元山で能勢隊が提案した LCVP による事前掃海が成果を上げることとなる。

 日本特別掃海隊は石野(自彊)隊(第 2 掃海隊(第 2 次)MS9 隻)が 11 月 3 日下関発、7 日鎮南浦に到着し、翌 8 日から掃海作業に従事している。 9 日に下関を発った大賀隊(第 5 掃海隊 MS4 隻 59、PS1 隻)は 15 日鎮南浦着、30 日まで作業に従事する。さらに17 日には、我が国が傭船契約した試航船「泰昭丸」(6,000 トン)が加わり、同じく 30 日まで活動した。

 第 2 掃海隊指揮官石野自彊氏によれば、掃海の方法は、まず米海軍水中処分隊が機雷を捜索拘束し、次いで浅喫水の上陸用舟艇 LCVP による略掃を行い、その後日本の掃海艇により精密掃海を実施するというものであった。韓国掃海艇に補給のため横付けした際、韓国軍の兵士から「自分の国の危機に(日本特別掃海隊が)手助けにきてくれているということを皆大変感謝している。中には日本を憎んでいる者もいるが、こんな皆さんの仕事を知らない人が多い」と話し掛けられたという。11 月 20 日鎮南浦の掃海完了が発表され、掃海作業も既掃海水道内を日施掃海するだけになった。第 2 掃海隊はアーチャー大佐(昇任)の命令により内地に帰投することとなり、 12 月 3 日鎮南浦発、7日下関に帰投した。鎮南浦における第 2 掃海隊の処分機雷は、2 個であった。

 なお、中共軍の介入に伴い、米第 8 軍は 11 月 28 日前線から後退し、12 月 4 日から5 日にかけて鎮南浦からの撤退と数万に及ぶ亡命者の南への移送を余儀なくされ、さらに 5 日には中共軍が平壌を占領するという情勢の中、石野隊(第 2 掃海隊)の鎮南浦からの帰投は、まさに中共軍との戦闘に巻き込まれる寸前の脱出であったと言えよう。

c 群 山
 萩原隊(第 4 掃海隊 MS7 隻)は、10 月 17 日下関出港、19 日群山に到着、翌日から掃海業務を開始した。同隊は、TE95.7 韓国海軍任務隊(米指揮官)に編入され、韓国 YMS艇長の指揮を受けながら 64、11 月 4 日までの 16 日間掃海業務に従事し、計 3 個の機雷を処分して、同月 9 日下関に帰投している。この間、10 月 27 日には、日本掃海艇 MS30号が座礁沈没したものの幸いにして死傷者はなかった。

 また、英国フリゲート艦艦長から「給料を 3 倍出すから鎮南浦の掃海をやってくれ」と再三にわたり口説かれたというエピソードは、当時、鎮南浦掃海の緊急の必要性を物語るものと言えよう。事実、第 4 掃海隊の MS4 隻は、11 月 2 日第 2 掃海隊に編入され、4 日群山発、途中下関から出撃した石野隊と合同し、7 日から鎮南浦の掃海に従事している。

 群山における日本の掃海作業報告には「同じ海域に対し、違った作戦命令が佐世保の第 3 掃海隊群司令部、韓国船 YMS-513、英国駆逐艦「モーコンベイ」及び日本の総指揮官から出され、我々はどの命令をとるべきか判断に迷わされた」「全作業を我々に任されたら、我々自身のペースでもっと容易に掃海作業を実施できたと思われる」とあり、群山においては指揮系統が混乱しており、また、日本側に必ずしも自主性が付与されていなかったことが伺える。


朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (4)に続く

  


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by HOOP | 2015-05-29 21:42 | Reading | Comments(0)
朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (2)
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「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影-」

元防衛研究所戦史部主任研究官 鈴木 英隆


1 日本特別掃海隊派遣の背景と経緯

(1)極東における機雷戦兵力の状況 1945-50 年前半
 北朝鮮では、46 年 7 月新設された水上保安隊が同年 12 月海岸警備隊に変更され、49年 12 月人民軍海軍として発足した。発足時の兵力は、人員 15,270 名、艦艇数はソ連軍の軍事援助を得た魚雷艇数隻を含む 35 隻、計 5,560 トンであり、朝鮮戦争勃発の前日 50 年 6 月 24 日の時点での兵力は、人員 13,700 名、警備艇 30 隻となっている。艦種としては、魚雷艇、哨戒艇、砲艦、モーターボート、帆船その他小舟艇であり、機雷敷設は、曳船にバージを曳航させるかジャンクで実施しており、機雷戦兵力と言えるも
のは無かったようである。

 一方、米国海軍では、第 2 次世界大戦後、戦争終結に伴う復員とともに、陸海空 3軍の統合が叫ばれ、空軍長距離爆撃機能が強化される反面、国防予算の削減に伴い、海軍兵力の大幅な削減が行われた。太平洋における機雷艦艇は、モスボール、スクラップ等により処分され、46 年の時点では、機雷戦部隊司令部、掃海駆逐艦(DMS、1,630 トン)2 隊、鋼製艦隊掃海艇(AM、890 トン)2 隊、木製船体掃海艇(AMS、270 トン)21 隻、そして新型掃海ボート(MSB、56 フィート)2 隻となった。47 年には太平洋艦隊機雷戦部隊の解散により、機雷戦に関するタイプ指揮官がいなくなり、訓練の実施に支障を来たす状態となっている。48 年には機雷戦兵力の更なる削減が行われ、この結果、第 2 次世界大戦中、米海軍太平洋艦隊にあった約 500 隻の掃海艇は、朝鮮戦争開始時には 22 隻となり、このうち極東水域で使用できるのは、 AMS6 隻、AM4 隻(うち 3 隻は保管状態)であり、これに傭船中の日本の掃海艇 12 隻を加えた 22 隻が全てであった。

 また、韓国では、海軍の創設は朝鮮解放後の 45 年 8 月 23 日、孫元一等が私設団体の海事隊を組織したことに始まる。海事隊はその後朝鮮海事協会、海防兵団と改称し、46 年 1 月、国防司令部に編入され、軍政法令による軍事団体として認められる。同年 6月、海防兵団は朝鮮海岸警備隊と改称し、韓国海軍はこの朝鮮海岸警備隊を母体として48 年 8 月、大韓民国の独立と同時に、大韓民国海軍として発足した。海軍発足直前の兵力は、人員約 3,000 名、艦艇数は小型舟艇を含み 105 隻、総計 13,000 トンである。朝
鮮戦争勃発時の海軍艦艇は、元米国掃海艇(YMS) 15 隻、元日本掃海艇(JMS)10 隻、元米国揚陸艦(LST)1 隻及び米国から購入した駆潜艇(PC) 4 隻であり、この他は軍艦といえないような雑多な小型船であった。開戦初期において、韓国の掃海艇(YMS)は、掃海具を装備しておらず、掃海の経験もなく訓練も十分でなかったため、 50 年秋の元山及び鎮南浦の掃海作戦においては、機雷処分艇、誘導艇及び連絡用として使用されている。

 日本においては、45 年 8 月の終戦時、日本近海に日本海軍が敷設した係維機雷約55,000 個と米国軍が B-29 及び潜水艦によって敷設した感応機雷約 6,500 個が残っていた。感応機雷の掃海作業は日本海軍が終戦前から行っており、戦後も引き続き実施していた。同年 9 月 2 日の連合国最高司令官一般命令第 1 号(陸海軍武装解除降伏等に関する一般命令)及び 9 月 3 日の同指令第 2 号により、日本国及び朝鮮水域にある機雷は、連合国最高司令官総司令部の指示の下に、日本政府として掃海作業を実施することとなり、海軍省内に掃海部を設置し、10 月には艦船 348 隻、人員約 10,000 名の掃海作業の組織的な態勢が整えられた。その後、掃海業務の所管は、海軍省の廃止に伴い、第二復員省、復員庁、運輸省海運総局、海上保安庁へと変わっていく。

 人員については、掃海従事者は 46 年 2 月の旧職業軍人公職追放令からは除外されたものの、占領軍から係維機雷の掃海完了に際し全掃海従事者の 50%削減が指示され、同年 8 月末には約 4,500 名となった。 48 年 1 月には、復員庁の廃止により、掃海関係者は約 1,500 名に激減し、さらに、48 年 4 月には掃海関係追放該当者の 50%削減が指示され、翌年 3 月末には約 1,400 名となった。朝鮮戦争開始後約 1 ヵ月半を経過した 50 年 8 月には、GHQ 民生局(Government Section)から全追放該当者の解任指令が発せられたが、日本各地の掃海作業が未だ終わらず、掃海部隊の存続を望む米極東海軍司令官ジョイ(C. Turner Joy)中将及び来日中の米海軍作戦部長と連合国最高司令官との交渉により、追放該当者の解任は同年 10 月 31 日まで延期されることとなった。その後 51 年の日本と連合国との平和条約調印までに 3 次にわたる解任延期がなされ、追放該当者の実質的な公職追放は解除となる。

 一方、掃海艦艇の隻数も逐次削減され、46 年 4 月には、 328 隻となり、その後、徴用漁船の解雇、係維機雷掃海の終了及び復員庁の廃止等により激減し、47 年 12 月末には 45 隻となった。その後米国海軍が傭入していた掃海艇の返還等により、50 年 6 月には 79 隻に増加し、朝鮮戦争を迎えることとなる。

(2)朝鮮戦争初期における北鮮軍の機雷敷設と国連軍海軍の対応
 7 月 10 日、ウラジオストックから、ソ連製の機雷が東海岸の鉄道によって南方に輸送された。以後、国連軍側が鉄道を破壊する以前に、約 4,000 個の機雷が元山を経由して運ばれ、8 月 1 日以前に元山及び鎮南浦において機雷敷設が開始された。機雷はさら
に鎮南浦から海州、仁川、群山及び木浦に輸送された。同月中旬、元山及び鎮南浦に北鮮軍のバージや哨戒艇がいることが国連軍側で確認されたが、機雷敷設に従事しているとは解されなかった。極東海軍司令官、第 7 艦隊司令官及び仁川上陸作戦攻撃部隊指揮官の仁川上陸作戦計画では、「北鮮軍が仁川に機雷敷設する限定された能力を有しているものの、入手した情報によれば、仁川に機雷が敷設されていることはない」とされており、作戦計画策定の時点において北鮮軍の機雷敷設については、考慮されていなかったようである。

 ところが、9 月 4 日鎮南浦南西海域において米駆逐艦が機雷を発見し、その 3 日後、同海域において英艦艇が多数の浮流機雷を発見した。 10 日には、韓国海軍の駆潜艇が海州の沖で機雷敷設中の北朝鮮の船艇を撃沈し、海州湾の湾口には機雷が敷設されているとの報告がなされ、翌日、第 7 艦隊司令官は全艦艇に対し、北朝鮮が機雷戦活動を開始した旨を布告した。そこで、太平洋艦隊司令官は、極東方面に掃海艇を急きょ追加派遣し、海軍作戦部長は、第 4 次復帰計画を修正し、AMS9 隻、AM4 隻を太平洋艦隊用として現役に復帰させることとした。ただし、この計画は 51 年度末に完了する計画であった。

 仁川上陸作戦においては、 TF90(攻撃任務部隊)の編成に含まれていた 7 隻の米掃海艇は、輸送船グループを護衛し、強襲上陸部隊より 2 日遅れで仁川に到着する計画であった。9 月 13 日、艦砲射撃のため仁川水道に侵入した米駆逐艦が係維機雷を発見し、銃撃により機雷を処分した。このため、輸送船グループを護衛中の掃海艇は仁川に急行することを命じられ、14 日夜仁川沖着、翌 15 日 0600 から午前中にかけて仁川港の掃海を実施したが機雷処分の成果はなく、また、上陸部隊第 1 陣が仁川に上陸したのは 15日 0633 であり、実質的に上陸作戦のための事前掃海の意味をなさなかったと言えよう。

 その後、9 月 26 日から 10 月 2 日までの 1 週間の間に、朝鮮半島東海岸で触雷により米国掃海艇 1 隻が沈没、米国駆逐艦、韓国掃海艇等 4 隻が大破し、機雷の脅威が大きく見直されることになるが、開戦後イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ等国連加盟諸国から巡洋艦、駆逐艦等が朝鮮水域に急派されたのに比し、掃海艦艇派出の申し出はなかった。したがって、 9 月末の時点では、国連軍が使用できる掃海艇は、米国掃海艇 21 隻及び日本で確認掃海に当たっている傭船中の日本掃海艇 12 隻のみであった。ただし、高い練度を持つ大きな掃海部隊がたった一つあった。それは前述した海上保安庁の掃海部隊であり、東京湾口、銚子沖、佐世保港外を含め日本内地の沿岸航路や瀬戸内海の掃海作業に従事していた。

(3)日本特別掃海隊の派出
 9 月 29 日、マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥は、第 8 軍、第 10 軍団、極東海軍及び極東空軍の各司令官に対して、元山上陸作戦の概要を伝えた。作戦の実施手順は、仁川上陸作戦に極めて類似したものであったが、機雷の脅威が大きく浮かび上がってきたため、攻撃部隊の到着に十分に先立って上陸用海面を掃海することが必要であった。同月 2 日、米極東海軍参謀副長アーレイ・バーク(Arleigh A Burke)少将は、海上保安庁長官大久保武雄を極東海軍司令部に呼び、元山上陸作戦を行うためにより多くの掃海部隊が必要であり、さらに元山以外の主要港湾の掃海も必要であること、国連軍が困難に遭遇した今日、日本掃海隊の助力を借りるしか方法がないことを述べ、日本掃海隊の派遣を要請した。大久保長官は、バーク少将の要請は現に戦争が展開されている朝鮮水域にかかわる重大な提案であり、最高の判断を求めねばならず、事は急を要するため、吉田茂首相に報告してその指示を仰いだ。首相は、アメリカ軍の軍隊や貨物輸送のためには傭船契約が結ばれていたが、掃海作業をする契約はなかったので、気乗りしなかった。のみならず朝鮮戦争下の掃海作業は戦闘行為であり、海上保安庁法第 25 条には海上保安庁は非軍事的部隊であると明記されてあった。ただし、45 年 9 月 2 日の連合国最高司令官指令第 2 号には、「日本国及び朝鮮水域における機雷は、連合国最高指揮官所定の海軍代表により指示せらるるところに従い掃海すべし」と朝鮮水域が明示されていた。ポツダム宣言を受諾した日本は当時なお占領下にあり、マッカーサー元帥の命令には絶対的な服従が要求された。吉田首相は大久保長官に対し海上保安庁の掃海艇をアメリカ海軍の希望どおり派遣するよう伝えた。

 当時、ダレス(John F. Dulles)特使がしばしば来日し、朝鮮戦争勃発直前にも吉田・ダレス会談が行われるなど、日本としては講和条約の締結前で国際的にも微妙な立場にあったので、この日本特別掃海隊の作業は秘密裡に行うこととなった。

 大久保長官は 10 月 2 日付で、「米側の指令により朝鮮海域の掃海を実施することとなるにつき、掃海艇 20 隻を至急門司に終結せしめよ」との命令を発する一方、朝鮮海域掃海部隊の総指揮官を田村久三航路啓開本部長、一番隊・山上亀三雄第七管区航路啓開部長、二番隊・能勢省吾第五管区航路啓開部長、三番隊・石飛矼第九管区航路啓開部長、四番隊・萩原旻四第二管区航路啓開部長を各指揮官とし、各隊掃海艇五隻、処分艇として巡視船一隻の編成とし、朝鮮水域の掃海隊を「特別掃海隊」と呼称することとした。

 バーク少将から朝鮮掃海を要請されたとき、大久保長官は、事故の場合の補償問題と憲法第 9 条のからみを考えて、GHQ より文書をもって日本政府に指令されたいと申し入れた。10 月 6 日米極東海軍司令官ジョイ中将から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、次のような指令が出された。
 ①連合国最高司令官は朝鮮海域に日本の掃海艇 20 隻、試航船 1 隻、その他海上保安庁の船舶 4 隻を使用することを認可、指示した。
 ②朝鮮海域でこの任務につく船舶は、国際信号E旗(燕尾旗)のみを掲げること。
 ③これら船舶の乗組員は、この任務にある期間、二倍の給料を支給される。
 この GHQ 指令にもとづき、日本政府は運輸大臣より海上保安庁長官に対し、特別掃海隊の朝鮮水域派遣を下令した。大久保長官は、6 日午後、旗艦「ゆうちどり」のサロンに田村総指揮官以下、各隊指揮官並びに船艇長を招集して、朝鮮出動の経緯並びに日本政府の意向を伝え、「日本が独立するためには、私たちはこの試練を乗り越えて国際貢献をかちとらねばならない。後世の日本の歴史は必ず諸君の行動を評価してくれるものと信ずる」と激励した。

 実は、この指揮官会議は紛糾し、討議が約 2 時間にわたり続けられたという。いかに講和条約前の米軍占領下であっても、任務も、行き先も、補償も不明のまま、まして海外で、明らかに危険を伴う作業に無条件に従うことはできない。乗員に説明し、納得が得られるものを示してもらいたいとの各船艇長からの強い要求に対し、田村本部長との間で、今次行動の条件として次の 4 点が決められた。
 ①占領軍一般命令第 1 号(45 年 9 月 2 日)及び占領軍指令第 2 号(45 年 9 月 3 日)に基づく、航路啓開業務の延長と考え、米軍及び日本軍が敷設した機雷の処分とする。
 ②北緯 38 度線以南の海域で、戦闘の行われていない港湾の掃海とする。
 ③作業は、掃海艇の安全を十分考慮した方法をもって実施する。
 ④乗員の身分、給与、補償等は、政府にて十分補償する。
一部家庭の事情で下船した者もいたが、ほとんどの乗員は了解した。
10 月 7 日山上隊が仁川へ、 8 日田村総指揮官及び能勢隊が元山へ、17 日石飛隊が元山へ、萩原隊が群山へと出港し、12 月 15 日、日本特別掃海隊の編成が解かれるまでの約2 ヶ月間、元山、群山、仁川、海州、鎮南浦の朝鮮海域の掃海に従事することとなる。


朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (3)に続く

 


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by HOOP | 2015-05-29 21:41 | Reading | Comments(0)
朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (1)
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「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影-」

元防衛研究所戦史部主任研究官 鈴木 英隆


はじめに
 2003 年 5 月 31 日、香川県琴平町金刀比羅宮にて第 52 回掃海殉職者追悼式が海上自衛隊呉地方総監によってしめやかに執り行われた。この追悼式には、終戦後我が国周辺の海域で掃海業務従事中に殉職された方々の御遺族、当時掃海業務に従事された方々及び海上自衛隊掃海関係者等約 200 名が集まった。この中に、朝鮮戦争中、日本特別掃海隊の隊員として元山に赴き、殉職された故中谷坂太郎氏の兄藤市氏及び弟の末友氏の姿も見られた。

 我が国は、敗戦という試練を乗り越え独立再建を果たすとともに、経済を中心として復興に成功し、経済大国としての国際的地位を確立した。しかし、 1990 年の湾岸戦争で総計130 億ドルもの拠出金を支払ったものの、我が国の財政面のみによる貢献は国際社会からあまり評価されなかった。湾岸戦争終了後の 91 年 4 月、自衛隊法第 99 条(機雷等の除去)に基づく措置として、海上自衛隊掃海部隊が自衛隊創設以来、初の海外実任務としてペルシャ湾に派遣された。これが自衛隊として、汗を流しての、そして命をかけた国際貢献の第一歩であった。以後、 92 年からは国際平和協力法に基づく国際平和維持活動要員・部隊の派遣が、そして 2001 年からはテロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊艦艇部隊の派遣が行われ、現在も引き続き実施されている。また、 2003 年 7 月にはイラク人道復興支援特別措置法が成立し、陸上及び航空自衛隊が派遣活動を続けている。

 このように、現在では、自衛隊の海外における国際貢献は定着し、恒常化されつつあるが、戦後我が国が初めて血と汗を流した国際貢献は、 1950 年、海上保安庁日本特別掃海隊の朝鮮海域への派遣であったと言えよう。日本特別掃海隊は、占領軍の要請により、 50年 10 月初旬から 12 月中旬にかけ、46 隻の日本掃海艇、1 隻の大型試航船 1 及び 1200 名の旧海軍軍人が元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海に従事して、 327 キロメートルの水道と607 平方キロメートル以上の泊地を掃海し、機雷 27 個を処分したものの、掃海艇 1 隻が触雷・沈没し、死者 1 名重軽傷者 18 名を出したものである。

 日本特別掃海隊の活動に関しては、これまでにもいくつかの文献の中で言及されているが、いずれも断片的な内容となっている。本研究はこれらの文献も踏まえつつ、米国及び韓国の公刊戦史、米海軍公式文書「米太平洋艦隊中間評価報告」等の関係史資料や関係者の手記等を用い、日本特別掃海隊の全体像に迫ろうと試みるものである。即ち、第 1 章においては、日本特別掃海隊がなぜ戦時下の朝鮮海域に派遣されなければならなかったのか、第 2 章では、朝鮮半島東海岸の元山のみならず西海岸各地での日本特別掃海隊の掃海活動について述べ、第 3 章では日本特別掃海隊の内なる部分として、派遣された隊員の心情及び派遣の事実が約 30 年にもわたり秘匿された影響について明らかにするとともに、日本特別掃海隊の果たした意義について考察する。


朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (2)に続く

  


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by HOOP | 2015-05-29 21:40 | Reading | Comments(0)