花井 泰子
けやき書房
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東京メトロ南北線。終点の「
赤羽岩淵」のひとつ手前が「
志茂」駅です。
現在は国道122号線が通っており、東京メトロ南北線はその地下を走っているのですが、
江戸時代、そこには鉄道どころか立派な道も存在しませんでした。
隣の「赤羽岩淵」とともに、国道122号には昭和40年代まで、
都電27系統(荒川線の前身)が走っていたのですが、
現在の国道122号線王子-赤羽間は、
この都電の前身である「王子電気軌道」(王電)を誘致すべく
地元有志が出資して電車のための路盤を整備したのだという話です。
東北本線に
赤羽駅がかなり早くからできたのも、
岩淵が宿場として昔から機能していたことに関係があるのでしょう。
現在も、
23区内唯一の酒蔵が残っています。
岩槻を経由する
日光御成道ができたのはかなり早い時期だったそうで、
徳川将軍家が
日光東照宮に行くときには、千住回りの日光街道ではなく
こちらの街道を使ったのだそうです。
また、東北本線の駅名が「岩淵」ではなく「赤羽」になったのは、
市街地を避けて通ったということだけでなく、
先に開業した東海道本線に岩淵駅(現在の東田子の浦駅)があったからだという話です。
さて、岩淵はそういうわけで江戸時代から宿場「町」だったのですが、
それとは対照的に志茂は寒村でした。
そして、この村が「志茂」と呼ばれるようになったそもそもの理由は
現在の志茂五丁目のあたりに、江戸の町から集めた「おわい」を溜める
「肥溜め」が七つあったことによるらしい。
すなわち、肥溜めのある「しも」の村というわけです。
「おわい」は隅田川を通ってここまで運ばれてこれらの肥溜めに溜められ、
荒川や旧利根川の水系を通って農村へと運ばれる、
積み替えの拠点、おわい水運の拠点となっていたわけですね。
七つの肥溜めがあった場所には、私の少年時代には交番があり、
警視庁赤羽警察署七溜派出所(ななためはしゅつしょ)という立派な名前がありました。
その後、昭和52年に七溜派出所は志茂五丁目派出所と改称され、
さらに移転して名前も「
志茂四丁目交番」に変わってしまったそうです。
志茂は「しも」の町だった、というしもネタでした。
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