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こまかいことにこだわってみるのもいいかもね (2003年8月クルーガー国立公園 Photo: E. Bailey)
by HOOP
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 かつてスキンの絵柄が女性だったからといって女性が書いてるとは限らないだろ。これが意外どころか、そのものズバリの脂ぎった中年男だったりするのだ。まあ、気持ちだけはいつまでも14歳くらいだったりするんだけんども、そんなこと言われたって気味悪いだけだろうしな。

 あ、そういえば、ブログホイホイに捕獲されちゃいました。アクセスアップだけじゃなくて、けっこう面白いブログに出会えるから意外と使えるかもね。

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朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (4)
朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (4)_b0002954_0203036.jpg


「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影-」

元防衛研究所戦史部主任研究官 鈴木 英隆


3 日本特別掃海隊の残したもの
 12 月 5 日、大久保長官は吉田首相を訪ね、日本特別掃海隊の任務がおおむね終了、各隊が下関に帰投したので、隊員を集めて慰労の式を挙げることを報告した。吉田首相は、「諸君の行動は国際社会に参加せんとする日本の行く手に、光を与えるものであった」との直筆によるねぎらいの辞を大久保長官に託した。また 7 日には、米極東海軍司令官ジョイ中将が日本特別掃海隊の功績をたたえて、大久保長官に対し「ウェル・ダン」という最高の賞詞を贈っている。9 日、海州部隊(大賀隊)はいまだ帰国の途上にあったが、大久保長官は下関唐戸桟橋で日本特別掃海隊員を前に、吉田首相からのねぎらいの辞及び米極東海軍司令官からの賞詞を伝えるとともに、慰労の辞を述べ、隊員の苦労をねぎらった。15 日、米極東海軍参謀長モアハウス(Albert K. Morehouse)少将は、米極東海軍司令官名の文書をもって、海上保安庁に対し、日本特別掃海隊の朝鮮水域からの解放について指示するとともに、米極東海軍司令官からの感謝の意を伝えた。これにより日本特別掃海隊の編成は、正式に解かれ、各艇は、それぞれの母港へと帰投した。

 本章では、日本特別掃海隊の輝かしい活躍の陰で、派遣隊員の心情はどのようなものであったのか、また、派遣の事実が約 30 年にもわたり公にされず、このことがどのような影響を及ぼしたのかについて明らかにするとともに、日本特別掃海隊の果たした意義について考察する。

(1)派遣隊員の心情
 日本は再び戦争は繰り返さない、戦争はもう懲り懲りだ、戦争のない平和な国を創らなければという戦後間もない当時の一般的風潮の中、実際に派遣された隊員の心情は、どのようなものであったのだろうか。

 能勢氏の手記では、「『日本は新しく成立した憲法によって戦争を放棄したのであるから、今更他国の戦争の為に危険な処に生命をさらしに行く理由は無い。(略)日本再建という使命だけを荷なって国民の掃海作業に献身的努力をしているのである。外国の掃海をする為に戦場に行くというのは納得しかねる。然し占領軍の命令とあれば、日本政府としては之に従わざるを得ないのではないか』というのが全隊員の感情であったようである」と記されている。また、 MS06 号艇長有山幹夫氏は、「『戦争に巻き込まれる恐れが多分にある。危険性も高い。このような状況で、部下を連れて行くことはとても出来ない』と申し出ると、六管区航路啓開部長池端鉄郎氏から『理屈を抜きにして全体のために自説を曲げてくれ』と口説かれ『先輩にこうまで言われると、いやとは言えない海軍の連帯感が心の中にあった』として、しぶしぶ従った」と証言している。

 一方、鎮南浦掃海に従事した石野自彊指揮官は、「当時の隊員の考え、心情は、MS14号艇の触雷沈没事故により、『今更なんで朝鮮まで出掛けて、死の危険を冒してまで掃海せねばならないのか』という疑問によって動揺した時機もあったが、ただちにとられた諸措置と、占領下の日本のおかれた立場を納得し、朝鮮水域に出動したのであるが、大部の乗員の考えの根底には、特別掃海隊解散にあたり、時の海上保安庁長官大久保武雄氏が訓示の中でいみじくもいわれた、『国際社会において、名誉ある一員たるためには、手をこまねいていてはその地位を獲得できない。私達自らの努力と汗で獲得しなければならない』との願望をもって、占領からの脱却、独立国日本の実現になんらかの寄与ができるのではないかという期待があったものと思う」と述べている。

 また、MS14 号機関長井田本吉氏は、「われわれは朝鮮動乱に参加したとは思っていない。掃海任務に徹していたからだ。いやだといって退職した者もいない。元気なものは、再度朝鮮行きを希望している事実は、やはり掃海に徹していたからだと思う」と述べた上で、MS14 号で重症を負った測角員の伊藤博氏の言として「当時のことについて、世上では、強権による出兵とかいろいろいわれているが、自分たちの朝鮮での掃海は、朝鮮の平和、日本の平和を今日維持している要因であったことを確信している」と紹介している。

 2003 年 11 月、広島県呉市において、筆者は MS14 号の乗組員で当時甲板次長の白井一夫氏と、甲板員の高木(旧姓石岡)義人氏にお会いすることができた。両名とも「我々の任務は、掃海をすることであった。日本で掃海をするも、朝鮮で掃海をするも、掃海をすることに代わりは無い。ただ掃海をするために出かけていっただけだ」と語った。なお、白井氏は、MS14 号の触雷・沈没で全身打撲の負傷を負い、帰国治療後の 50 年 11月「ゆうちどり」の乗組となり、一方、高木氏は、帰国後同じく 11 月に MS06 号乗組として再び朝鮮海域に赴き、鎮南浦の掃海に参加している。

 これらを見るに、出撃にあたり釈然としない面は多々あったものの、プロフェッショナルとして「掃海をするために」あるいは、「我が国の独立のために、そして国際社会の一員として」という大義名分の下、旧帝国海軍軍人の繋がりまたは同じ掃海仲間という強い結びつきで、やむなく出撃していったのではないだろうか。MS14 号の触雷・沈没で、中谷坂太郎氏が戦死し、能勢隊が帰投したにもかかわらず、朝鮮海域の各地で整斉と掃海作業が続けられたことがそのことを物語っているように思われる。

(2)日本特別掃海隊派遣が秘匿された影響
 日本掃海艇の朝鮮海域派遣の要請について、大久保長官から報告を受けた吉田首相は、「わかった。出しましょう。国連軍に協力するのは日本政府の方針である。ただし、掃海隊の派遣とその行動については、いっさい秘密にするように」と述べた。当時、新憲法が制定されて 3 年、戦時下の朝鮮水域への掃海艇派遣は憲法第 9 条に抵触する恐れがあり、表ざたになれば政治問題化することは十分に予想され、具体化しはじめていた講和条約締結問題に悪影響を及ぼす可能性があった。

 山上隊が下関を出撃した 2 日後の 50 年 10 月 9 日、東京新聞夕刊によって日本特別掃海隊が朝鮮海域へ出動したことが報じられた。続いて 22 日には、朝日新聞は朝鮮海域での掃海艇の沈没事故を伝え、数については不正確であるが、この事故で死傷者が出たことを報じている 。しかし、当時は占領軍の威光がきいていたのか、野党からの反応はなかったという。

 54 年 1 月 18 日、大阪新聞及び産業経済新聞は、元山上陸作戦において掃海中の海上保安庁掃海艇 1 隻が触雷・沈没し、戦死者 1 名を出したことを報じた。これを機に、野党の国会追及が始まる。1 月 30 日の衆議院本会議各党代表質問で、共産党の川上貫市議員が、元山上陸作戦に日本の掃海艇が参加した事実を糾すと、吉田首相は、「元山沖の掃海艇云々はマッカーサー元帥が日本にいた時のことで、何も記憶はない」と答弁している。3 月 24 日の衆議院外務委員会では社会党下川儀太郎議員が、また、29 日には穂積七郎議員が、元山上陸作戦での掃海作業は憲法違反ではないかと質問したのに対し、外務省条約局長の下田武三氏は、「占領中でなかったら問題となり得るかと思うが、GHQ の命令により行われたことは、平和条約で、日本はこのことを追求しないこととなっている」と答弁しており、以後国会における事実関係の追求はなされなかったようである。

 吉田首相の指示により、日本特別掃海隊の派遣とその行動が一切秘密とされた。このことにより、アーレイ・バーク少将からの派遣要請があったその日のうちに派遣を決定し、しかもその 5 日後には日本から第一陣が出撃、途中、掃海艇の触雷・沈没事故により死傷者を出したにもかかわらず、マスコミおよび国会等で大して取り上げられることもなく、約 2 ヵ月間の日本特別掃海隊の朝鮮海域派遣を成功させることができたのである。

 一方、秘密とされたことにより失われたものも決して小さいものではなかった。 50年 12 月 9 日、大久保長官が下関唐戸桟橋で、特別掃海隊員を前に「日本が将来国際社会において、名誉ある一員たるべきためには、私たち自らが、自らの努力により、その汗によって、名誉ある地位を獲得しなければなりません」と述べた慰労の辞は、日本特別掃海隊の事実を約 30 年にわたり知らされなかった国民には伝わるはずもなかった。

 言うまでもなく、日本特別掃海隊の隊員及びその関係者には、特別掃海隊の件に関し厳格な緘口令が敷かれており、彼等にとって、事実を世に認めてもらえない無念さは、いかばかりであったかは想像に難くない。大久保武雄の『海鳴りの日々』に、元山で触雷・沈没した MS14 号の甲板次長白井一夫氏の談話として、「当時のことについては、今迄に「週刊文春」等に朝鮮掃海の記事があったが、真実でなく、小説的に書かれている。早く真実を公表してほしい」と口惜しい気持ちが述べられている。

 MS14 号とともに戦死した故中谷坂太郎氏の場合は、さらに悲惨である。MS14 号が触雷・沈没した時、政府は戦死者や戦傷者に対する補償の処置をとっておらず、バーク少将と相談し、殉職者には取りあえず GHQ から弔問し、補償金を出してもらったという。50 年 10 月 25 日、海上保安庁葬として行われた葬儀に出席できなかった兄の中谷藤市氏によれば、「父から『米軍の命令による掃海だったことと死んだ場所は、絶対口外しないように』と言われ、瀬戸内海の掃海中に死んだことにしようと、みなで申し合わせた」という。

 52 年、終戦時からの掃海殉職者の偉業を永く後世に伝え、その御霊を祀るため、全国32 の市港長が発起人となり、香川県琴平の金刀比羅宮に、吉田首相の揮毫による掃海殉職者顕彰碑が建立された。この碑に、中谷坂太郎氏の名が終戦後からの掃海殉職者 76名とともに刻まれているが、殉職場所、時期等日本特別掃海隊派遣中の殉職であることを示すものは見当たらない。坂太郎氏の殉職後 29 年を経た 79 年秋、戦没者叙勲で勲八等白色桐葉章が贈られた。ただし、勲章の伝達は内輪にして欲しいとの内閣の意向で、新聞発表は取りやめ、大久保武雄氏及び所管の海上保安部長が遺族の家を訪れて伝達したという。

 兄の藤市さんは、「叙勲によって、やっと坂太郎の殉職が公認された。これで晴れて弟の死を語ることが出来る」と話したとされる。

(3)日本特別掃海隊の意義
 日本特別掃海隊の果たした意義として、次の 3 点が挙げられるのではないだろうか。

 第一に、朝鮮戦争における国連軍の上陸作戦、撤退作戦及び後方支援作戦等に大きく寄与したということである。日本特別掃海隊の元山、鎮南浦、海州、仁川、群山における掃海活動が、国連軍の元山上陸作戦、鎮南浦からの撤退作戦及び上記港湾を使用しての後方支援作戦等に必要不可欠であったことは、前述のとおりである。 50 年 12 月 7日の米極東海軍司令官ジョイ中将から大久保長官に対する日本特別掃海隊の功績をたたえた「ウェル・ダン」の賞詞に示されるように、日本特別掃海隊が朝鮮戦争において、国連軍の上陸作戦、撤退作戦及び後方支援作戦等に大きく寄与したことは言うまでもない。米太平洋艦隊中間報告では、「50 年 9 月以降の掃海艇の再就役と、日本掃海艇の利用とが相まって、北朝鮮の機雷原と戦うことを許容し、11 月には機雷戦能力は、受容できる程度まで改善された」、「連合国最高司令官(SCAP)の承認を得て参加した日本の掃海艇は、作戦の成功に大きく貢献した」と評価している。

 第二に、日本の掃海に関する術力及び技術力を国連軍に誇示したことである。日本特別掃海隊の朝鮮水域での活躍は、第 2 次世界大戦の後半から戦後 5 年間にわたり、日本沿岸海域での掃海作業で培ってきた掃海に関する術力並びに帝国海軍からの掃海に関する技術力を国連軍に誇示したものといえよう。ジェームズ・アワー(James E. Auer)は、「日本掃海艇によって一度掃海された区域で、他の掃海艇によって掃海のやり直しをしなければならないようなところは、一箇所もなかった。だが、日本の掃海艇にくらべてはるかに経験の浅かった国連軍の掃海艇が掃海した区域では、こんなことは言えなかった」と述べている。また、米太平洋艦隊中間報告では、「日本の掃海艇は、元山、鎮南浦、海州、群山で 係維及び磁気機雷の掃海に従事した。隊員の技量は良好(good)であり、掃海艇の馬力が小さいことを考慮すれば、掃海作業は満足(satisfactory)すべきものであった」と評価している。

 一方、海上保安庁の特別掃海隊の経過概要並びに所見には、「幸いに器材、舟艇の不備に拘わらず我が術力は大いに認められ我方の意見具申は高く評価されたが掃海作業の生命とする精度確保の点よりして舟艇、器材の不備を痛感した。国連軍の舟艇、器材に配するに我術力を以ってせば最高度の能率発揮は極めて容易なるを確信した。(以下略)」と記されている。また、能勢指揮官の元山で提案した LCVP による小掃海が鎮南浦で採用され、多大な成果を上げたこと及び群山での萩原隊が英国フリゲート艦艦長から「給料を 3 倍出すから鎮南浦の掃海をやってくれ」と再三にわたり口説かれたこと等も、日本特別掃海隊の術力を評価したものと言えよう。

 さらに、技術力の面では、米太平洋艦隊中間報告によると、小舟艇による磁気掃海では、日本製の 3式(磁.棒)掃海具を使用した対艦式磁銲棒掃海が使用され、「よく訓練された人員の場合、見事な成果を収めた」、「(3 式)掃海具はよく操作され、よく機能した。日本式磁銲棒掃海は有効幅が小さく、舟艇は適切な航法を必要としたがその単純性と有用性は、米国の B8 磁気ワイヤー掃海具に匹敵する」と述べられている。

 第三には、海上保安庁の装備等の強化をもたらしたとともに、海上戦力再建への布石となったことである。朝鮮戦争の勃発により、50 年 7 月 8 日マッカーサー連合国最高司令官は吉田首相宛の書簡によって 7 万 5 千名からなる警察予備隊の創設と海上保安庁の 8 千名の増員を求めた。同年秋、米極東海軍司令官ジョイ中将は、野村吉三郎元海軍大将に、ソ連から返還されたフリゲート艦 18 隻を日本に貸与してもよいと述べている。日本特別掃海隊の朝鮮における活躍により、バーク少将はこれらのフリゲート艦を日本の新しい海軍で使用するのが適当であると考えるようになり、米国政府の了解を取り付けるのには日本側から要求させるのが良いとして、閣僚レベルの地位にあり、吉田首相の信頼の厚い大久保長官をワシントンに送り交渉させることとした。同年 12 月 15日、バーク少将を訪れた大久保長官に対し「マッカーサー書簡に答えるためには、海上保安庁の勢力を強化し、従来の不合理な制限をとり除かねばならない。大久保長官はワシントンにおもむき、アメリカ政府やペンタゴンと打ち合わせてくるのが良策だ」と示唆している。51 年 1 月、バーク少将の勧めで、渡米した大久保長官は、巡視船の速力、トン数制限の撤廃、大砲の搭載、米フリゲート艦の提供、浮遊機雷監視用航空機の保持等装備の強化について、国防省の了解を取り付けた。このようにして海上保安庁の装備等の強化が承認されるとともに、後に貸与されるフリゲート艦は、同じく貸与される大型上陸支援艇( LSSL)及び保安庁警備隊の掃海部隊とともに我が国海上兵力再建の基礎となるのである。


朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊 -その光と影- (5)に続く


日本の掃海―航路啓開五十年の歩み

 


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by HOOP | 2015-05-29 21:43 | Reading
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