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外国語の声明文は、主要な人権団体や活動家には送っているが、友人知人津津浦々にまで送ってはいない。それなのに、皆が「私が日本でやったこと」を知っている。フェイスブックで流れたらしい。おそるべしフェイスブック。 そして多くの人が連帯と共感の意思表示をしてくる。食事に入ったレストランでまで、そこの若旦那に「話を聞かせろ。代金は要らない」といわれて、注文してない料理ががんがん出てくるのにはちょっと困ったが。 そして皆同じことを訊く。「なぜ、きみが?」実は、私にだってわからない。ただ、そうしなくてはならないと思ったからだ。このきなくさい臭いの時代に、たまたまそこに居合わせたから。そして私はカナリアだからだ。 その答えに、こう切り返した詩人がいた。「確かにきみはカナリアかもしれないが、ずっと国境も言葉も飛び越えて、自由に飛んでいた。それを、なぜいまになって、好きこのんで、自分から炭坑に入ったのか」と。これだから詩人は厄介だ。 詩人は続ける「なにもなければ、それでいい。しかし、もし本当に危険なことがおこったときには、君の友達が警告に気づくときには、カナリアは死んでいるんだよ」 なぜ詩人は尊敬されるのか。それは、連中はいきなり核心を突くからだ http://bit.ly/f7Z0SN なにもかもお見通しの詩人に私は答える。「そう簡単にはいかないわ。だって炭坑の外に、私にはたくさんの友達がいて、みんな私が炭坑に入ったことを知っているのよ」 「カナリアの友達はカナリアだ。きみや、きみが護ろうとしている坑夫たちに何かがあれば、皆で大合唱を始めるだろう」 詩人は言った「ぼくはカナリアの詩を書くだろう」 私は答える「不吉な詩にしないでね」 詩人は答える「それはぼくにはわからない」 彼が書くのは、愚かなカナリアの詩だろうか、それとも利口なカナリアの詩だろうか? まあ、詩人のことだ。できあがるのは、愚かなカナリアの詩であろう。まあ、それはそれでよい、どうせそのつもりだったんだからな。
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